使い方の修行

道具というものは面白いもので使い方次第では、あらゆる可能性を秘めています。古民家甦生を通して、かつての古道具をリメイクしてそれを今の時代だったからどう活かすかと磨き上げていますが用い方によっては新たな発見や発明がありワクワクします。

かつて中心思想の常岡一郎さんは、『人間は生まれながらにして「使い方」の修行をするのだ』といいました。確かに、道具も使い方、そして道具を活かす人間自体も使い方、自分という人間も使い方、この様々な使い方の中に生きる哲学があり、その人の生き様があるように思います。常岡さんは心の使い方に注目しこう仰います。

「この世の中そのままがわれわれにとって道場であります。生まれて死ぬまで人間は修行してるものと思われます。それは「使い方」の修行です。身体の使い方、 心の使い方、 金の使い方、 力の使い方、 知恵の使い方、鮮やかさの使い方、正しさの使い方、 自然に添う使い方、 気持ちよい使い方、それを毎日修行する。そのための人生は心つくりの道場であると思います。」

心つくりの道場・・・自分がもしも天や神様の道具だとしたら、こうじゃなきゃ使われないと意固地に頑固に潔癖であったらその道具は使いにくいし出番も少ないように思うのです。

今、リメイクしている道具たちはこちらがこう使ってもいいかと聴くとなんでも受け入れて手伝ってくれます。ある時はテーブルに、ある時には蓋になり、またある時は扉になり、またある時は台になり、こちらの要望にあわせていくらでも変化して、しかもそれであってまるで最初からそうであったかのように馴染んでくれます。その道具もまた自分を新たに発見しその時代に活かされる歓びを感じているかのように活き活きと輝きます。

古民家の道具たちは、あらゆるものに変化し、使い手と協力関係を結びお互いを尊重して大切に相談しながら活かしあい互いに馴染み合います。そこには自然や偉大な調和を感じます。

その時、確かに使い手の使い方もありますが、使われる側にも使われ方というのもまたあるように私は思うのです。それは、「あなたがのぞむのならば私はどのようにでも使われますよ」といった天命を受け容れる心の強さ、柔軟性があるのです。

以前、マザーテレサが「私は神様の小さなえんぴつである」という言い方をされていたのを著書で読んだことがあります。マザーテレサはこう言います。

「鉛筆を使って画家がすばらしい絵を描いたからといって、もし鉛筆が自分は偉いと思い込んだらどうなるでしょう。鉛筆がおごり高ぶって自分の力で勝手に動き始めたら、きっと絵はめちゃくちゃになってしまうに違いありません。鉛筆は、画家の手の中で、画家の思うままに動くからこそ美しい絵を描くことができるのです。」

この無欲さ、捧げ切るという生き方、道具が活かされるには我執や固執があると活かせるものも活かされなくなるのかもしれません。

古い道具たちが時代を超えて私と一緒に今の時代に生き続けられるのは、みんな一緒に天命の赴くまま天意の思うままに生きているからです。そしてこれこそが変化の王道であり、成長の要諦であり、永続する自然のいのちの理なのではないかと私は思います。

「人生は使い方の修行である。」

とても含蓄のある言葉です。引き続き、来たものを選ばず自他一体に真心を盡していく日々を味わっていきたいと思います。

 

  1. コメント

    織り上がった布で仕立ている途中でしたが随分形になってきました。立体になってきてようやく「そういうことか!」ということに気づきます。だったらこうしておけば良かったと思うことばかりですが、これも体験して全て次に活きることを感じます。そして、着物や帯を別のものに活かそうとする気持ちや想いも、何かわかるような気がしてきました。その時に応じて仕立て直し、いつまでも新しくなれるのは凄いことです。まだまだそんな技術はありませんが、暮らしの実践を深めていきたいと思います。

  2. コメント

    「使い方」とは「生かし方」でもあります。「自分の使い方」とは、「自分のいのちの生かし方」であり、「与えられている能力や性格の生かし方」でしょう。そして、「生かし方」の本質は、「生かされ方」を知っているということかもしれません。このいのちを上手く生かしてもらえるよう、与えられている能力を磨き上げるとともに、自由に使ってもらえるよう、素直さや謙虚さをしっかり身につけておきたいものです。

  3. コメント

    自分に軸足があってはいつまでも自分都合の自分の使い方しか分かりません。いつもその出来事、機会に軸足を置くから、自分の使い方を知ることが出来るのだと思います。自分が今生きている意味、ここにいる意味を勘違いしない様に、自分の軸足がどうなっているのかを見ていきたいと思います。

  4. コメント

    あの時、咄嗟にテーブルになった姿を見てなんだか不思議な感覚がありました。カタチに慣れ過ぎてしまっていると発想すらも湧いてこないように思いますが、あの感覚は子どもたちの遊びの感覚に近かったように感じます。用途を決められたものばかりに囲まれていると分からなくなりますが、物事は常に柔軟であるということを忘れなようにしたいと思います。

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