伝来の宝

いにしえより伝来したものに触れていると仕合せな心地がします。特に経年変化によって木が飴色になったものや、古鉄を磨いたときに出てくる深い黒色、それに土壁の中からにじみ出てくる錆び色、反物がしっとりと濃い蒼色になっている姿が美しく、心が落ち着いてきます。

色が変わっていくというのは、単に明暗が出たり強弱がついているのではなく暮らしそのものが出ているのです。

「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。」と松尾芭蕉はおくの細道で詠みましたが、まさにその境地を感じます。伝来ものというものは、まるで旅人のようにこの永遠の月日の中を彷徨いながら旅をします。そしてその時々にその時代の伴と出会い、一緒に過ごしながらまた色を深くしていきます。

薄明りの中で、しっとりと反射して映ろう古い伴は心の安息を与えてくれます。

私たちは本来、伝えるということと承るということを通してかつての親祖や先祖たちに出会い続けていきます。根からつながっていると実感することは、今の自分があることの仕合せを感じるものであり、そういうものと触れていたらいつも心が穏やかです。

わびさびは、その旅人の境地でありその旅を住処として永遠を漂うことは不幸ではなく無尽の幸福でもあります。

古いかつての仲間たちに囲まれながら、未来の子どもたちを見守り続けるというのは自分自身の心にも感応するものがあり、決して本質を見誤るなよ、決して安易に流されるなよとつかず離れずに見守ってくださっているかのようです。

懐かしいと感じる心は、日本人の心のことです。

この懐かしさこそ、伝来の宝であり私たちはその宝を子どもたちに譲っていく責任があると私は思います。引き続き、日本人としての生き方の甦生を実践しつつ脚下の実践を仲間たちと一期一会に味わい楽しんでいきたいと思います。

  1. コメント

    様々なものが持つ歴史という「時」を感じられるのはぜいたくなことだと感じます。この「時」に思いを巡らせ、「時」が物語やご縁、気づきを運んでくれるのを楽しみに待っています。我が家でも自分と同い年のストーブがありますが、これもまた、一緒に過ごすだけで毎年幸せな気分です。煤竹も同じ体験を頂きました。この「時」というものを子どもたちにどうやって残していくのか。こればかりはその場で作ることができないものだからこそ、連綿と継いでいくしかありません。自分の代で途切れさせることがないように気を付けていきたいと思います。

  2. コメント

    自分の生まれる遥か前にどこかで使われていたものが巡り巡って今目の前にあるというのは不思議なことです。人が旅するように物も旅をして、言葉で会話はできませんがそこに思いを馳せるところに本来大切にすべきものがあるように感じます。知らない土地に赴くことだけが旅ではないということを最近よく感じます。時代を超えての一つ一つの出会いを大事にしていきたいと思います。

  3. コメント

    骨董品などと言い、お宝鑑定などと言われますが、外から見ていればそのような感覚しか持てないかもしれません。実際にそのものに触れ、そのものの中で暮らし、味わう体験をしてみると、本当のお宝とはそのもの自体ではないのだということを感じます。一期一会の仲間たちといただく有難い機会こそを大事にしたいと思います。

  4. コメント

    本来、何も手を加えなければ、ものは「経年劣化」していきます。しかし、そこに人の暮らしが加わることで、「経年変化」に変えていくことができます。それらは、暮らしの一風景であり、そこに刻まれた時の積み重ねが味となって、いろいろな色合いに変わってくるのかもしれません。その変化を大切に継承していくことも、私たちが譲っていくべきものなのでしょう。

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