暮らしの信仰

昨日、長崎県平戸市にあるお客様の寺院にてお風呂の神様として祀られている「跋陀婆羅菩薩」(ばったばらぼさつ)のお話をお聴きする機会がありました。ちょうど聴福庵のお風呂場の甦生に取り組んでおり印象に残りました。

古来より日本の家には多くの神様がいて祀られていました。福を授ける大歳神、家全体を守る天照大神、台所の火を守る三宝荒神、家中の火を司る火之迦具土神、家の穀物を守る宇迦之御魂神、台所には他にも布袋、恵比寿、大黒神、井戸や水場を守る弥都波能売神、トイレには烏枢沙摩明王と弁財天、家宝を守る屋敷神の納戸神、窓や風を司る志那都比古神、門を守る神様の天石門別神。家屋、屋根を守る大屋毘古神。家の戸の神、大戸日別神。他にも似た神様に座敷や蔵の神様に座敷童子、そして先ほどの風呂場の跋陀婆羅菩薩です。

いざ書き出してみると、これだけ多くの神様が守ってくださっている家。ここにはもはや宗教の違いを超えて常に身近に神様がおられ私たちの暮らしを守ってくださっているという生活をしてきたことがわかります。

先日、ある方が祖母が早朝より古民家の中にあるありとあらゆる神棚の御水替えでだいぶ時間がかかっているとお聞きしましたがそれだけ昔から家の中の守り神を日本人の先祖は大切にしてきたように思います。

今の西洋式の家屋では神棚もない家が増えてきました。家を守っている神様が一つも目に見えるところにもなく、信仰する場もない環境ができてしまえばかつてのような日本の民家の暮らしもまた消失していくのは時間の問題なのでしょう。

昔は水も火も風も、土も穀物もすべて自然からの恩恵でありその恩恵があって家での暮らしが成り立っていました。その感謝を忘れないで大切に守ってくださっていることに祈る日々が暮らしの根っこにあったように思います。

当たり前になってしまっている現代の便利な生活の中で、失ったものが何かは神様がいなくなったことでわかります。私たちは暮らしを通して信仰心を養い、生き方を磨いてきたからこそ日本人らしい感性が伝承されてきたようにも思います。

改めて、古来からの暮らしの信仰を見直して引き続き子どもたちのために家を甦生していきたいと思います。

  1. コメント

    「御利益信仰」と言われることがありますが、本当の「御利益」とは、「何事もなく、今日一日をみんなが無事に暮らせること」ではないでしょうか。また、もし何かあったとしても「その程度で済んでいる」のかもしれません。常に判断ミスや失敗を犯す人間が、当たり前のように何事もなく過ごさせていただけること、この見護りに奇跡を感じ、感謝できることが信仰の原点ではないでしょうか。

  2. コメント

    家のあちこちに神様がおり、家全体から見守られていることを感じます。聞いたことのある神様もいれば、何と読めばいいか分からない神様もいますが、きっとこのお祖母様の後をくっついていたお孫さんもいたのではないかと思うと、暮らしそのものが伝承の場であることを改めて感じます。日本家屋、そして家族形態も今の時代にどう体現していけるか実践を積んでいきたいと思います。

  3. コメント

    ここ数年で信仰というものにも少し意識が変わってきたためか、最近では冠婚葬祭というものにも違和感を覚えるようになってきました。人が亡くなった時だけ仏教に触れるのも、挙式を行う時だけ教会式でアーメンと唱えるのも、それ自体は尊いことだと思いますが、本来なら日々の信仰があってはじめて冠婚葬祭にも意味が付くように思えます。カタチだけになってしまわないよう、またカタチすら失われてしまわないよう、少しでも本質を観ていきたいと思います。

  4. コメント

    暮らしの中に神に感謝する環境や心をどれほど持っているだろうかと思うと、まだまだ暮らしと信仰を分けていることに気づきます。聴福庵を通じて感じるものは自然と暮らしへと移り変わってきていますが、暮らしというのも人生そのものであるからこそ、もっと根本から見つめていきたいと思います。

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