文化とは何か

「文化」という言葉は明治時代に翻訳された言葉の一つです。英語、ラテン語ではこれをcultureと書き、意味は耕すや洗練、また私の意訳では素養や教養、たしなみや心得ともいいます。企業文化などで語られる文化は、その組織の価値観のことであり一つの目的や理念に対して洗練されて創造されたその企業らしさを企業文化と語られるのかもしれません。

そう考えてみると、この文化というものはそのものが磨かれ洗練され創造された一つのカタチであるともいえます。これは企業に限らず、個人でさえ文化を持っていることになります。よく美術や芸術、もしくは造形のすべてにいたるまで私たちが鑑賞しているものはそのものの「文化」のことであり、その人物が思想や精神、その全生命を真摯に注入して具現化させたものを文化として認識しているということでしょう。

文化というものを考えるとき、それを創っている担い手は何かということになります。結果が大事なのではなく、その洗練される過程こそが文化育成そのものであり、如何に磨き洗練させていくか、その洗練する過程の中で人々はその文化に共感し、その文化が明確に外に顕れ現実の世界の人々に伝えることができるに至るのです。

例えば、人間には素養というものがあります。その人らしい天真を、如何に掘り下げていくか、如何に耕していくか、人間を磨き上げて人格を高めていくか、そういうものが文化です。

その人物がどのような文化をもっているか、言い換えるのならその人物の理念がどのようなものであるか、その理念をみんなで磨きあげていく中ではじめてその理念は顕現して周囲を感化するに至るのです。

人格を養いそして修めると書いて「修養」とも言いますがまさに文化とはこの「修養」のことであり、その人物たちがどのように修養したかが文化の証明であると私は定義しています。

これから文化事業を始めるにあたり私はこの意味をもう一度、展開していくなかでご縁ある人々と語り合い磨き合いたいと思うのです。

歴史を省みるとどのような時代もその時代に全生命あらゆるものを懸けて生きた人々の修養の洗練があったからこそ文化が今でも光り輝き歴史遺産として遺っています。その文化を観照するとき、私はその時代の人々がそうであったように、今の時代であってもそう生きたいと願い祈るのです。

かつての先祖のようなものが今の時代では同じようできなくても、今の時代にしかできない洗練されたものが創造できるはずです。それを自らの内面に見出し、かつての先祖の生き方に恥じないように文化を耕し、自分自身を掘り下げ、無二の初心を子孫へと伝承していきたいと思います。

  1. コメント

    二宮尊徳は、「心田を耕す」と言いましたが、「心田」とは、個人だけでなく、企業や地域、あるいは国にもあって、そこで育った産物がそれぞれの文化になるのでしょう。また、すべての芸術は「自己の表現である」とも言われますが、「文化」も「自分たちとは何であるか?!」をそれぞれのカタチで現したものなのでしょう。その特色の背景にある永い永い過程に思いを馳せたいと思います。

  2. コメント

    「culture」に耕すという意味があることを知った時、衝撃を受けました。それは硬い畑の土を耕したことと重なり、自分から切り拓いていくものだと感じたからです。今行っている一つ一つもどれも切り拓いていることだと思うと、場が馴染むまでは痛みも大変さもあって当然なのだと感じます。7年後、畑の土がかまどに変わったように、その時はわからなくてもつながっているのだと信じ、取り組んでいきたいと思います。

  3. コメント

    「文化」という言葉も何気なく用いてきたものではありますが、あらためてその意味を思うと曖昧なことに気づきます。一説には、武力を背景にして他に影響力を及ぼす「武化」の対義語として、学問の力で人を感化し教え導く意味もあるようです。組織でも知らずの内に力で競い合う状態になってしまっていることは多いのかもしれません。人徳でお互いに感化し合い磨き合うような「文化」づくりを、ご縁ある方々と一緒に創造していきたいと思います。

  4. コメント

    自分自身の暮らしや働き方が「文化」ではなく「文明」ばかりを求めていないだろうかと省みると、簡単便利なことばかりを考えていては大事な文化が残せないと感じます。文化とは生き様なのだからこそ、どんな文化を残していきたいのかを自問していきたいと思います。

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