配慮の学び直し

人間は自分の思ったこととは別に配慮というものがあります。この配慮の字を分解してみると「慮る」という言葉と「配る」という言葉でできています。似た言葉に気遣いという言葉がありますが、気を遣うのと心を慮るのもどちらも自分自身が相手に行うだけではなく、相手のことを自分が思いやるときに用います。

人は、自分の思い通りに自分勝手にやろうとすると思いやりが欠けていきます。自分都合の気遣いや配慮は、それは気遣いや配慮ではありません。相手が自分のことを心配してくださっていると感じたり、自分のことを気遣ってくれているというのは心を用いて感じます。

よく配慮に欠けるという言葉もありますが、これは思いやりが足りていなかったということです。ここでも思いやりは、どれだけ全体のことを気遣ったか、どこまで観通していたかということになります。

つまり配慮とは自分を中心に自分だけの小さな視野で物事を観るのではなく、全体を観て広い視野で物事を観るということです。

また前提に自分自身が周りのことを信じているからこそ相手を思いやれ、疑っていれば思いやりに欠けます。相手がもしも自分だったらと、自分を相手の立場になって慮る、つまりは相手の心を勝手に思い込んだり決めつけりするのではなく、相手の心になってみる、相手がもしも自分だったらと共感するときに人は配慮ができていきます。

共感というのは、自他が分かれていない境地だとも言えます。それは相手が自分、自分が相手という思いやりが一緒一体になっている状態です。そしてそれが全体の一部になっている自分があり、自分自身が全体そのものであることなるのです。

それを調和とも言いますが、調和はみんなの配慮が折り重なって発生していきます。自然界は、自分の分度を決め、分を弁えます。自分の分を超えてしまえばそれが周囲に影響があることを知り、それが巡り巡って自分に帰ってくることも本能で自覚しています。

人間の配慮なき行動は自然を揺るがせています。

そう考えると、配慮は人間が学び直すうえで大切な徳目です。引き続き、自分自身と全体を見つめ学び直していきたいと思います。

  1. コメント

    すべての間違い、勘違いは、「自己中心的である」ところから生じるのでしょう。それは、「自分から相手を見、自分から社会を見、自分から世界を見る」からでしょう。自分から見ている限り、自分の事情や自分の都合が入り込み、それが和を乱します。「調和」というのは、意図してつくるものではなく、全体が調和している状態に素直に従おうという意識が創り出すものではないでしょうか。

  2. コメント

    相手のためと思いながらやっていたことが次第に押し付けになっていたり、頭ではわかっていても身近な人にほど感謝が伝えられなかったりします。ピカピカだったはずの床の間も時間が経過するとともに木目が見えなくなってしまうように、磨くことで見えてくるものがあります。同じように気づいたら振り返り、相手の気持ちに立って考えていきたいと思います。

  3. コメント

    まだまだ自分自身は自分の良かれという思いや、信念の押しつけになってしまうことがあり、「正論」で語ることや相手の今の能力や状況に寄り添わずに自分の実体験での成功事例を語ったりすることが、相手にとっては心無い一言になってしまったり、相手の心を傷つけたりといろいろとありました。特にあるのが、聴いていないので決めつけになったり、聴いていないのに話すので相手からすれば「私の話を聴きもしないくせに」と心を閉ざしてしまったりということがありました。そんなところからのスタートだったので、今もまだもっぱら丸ごと「聴く」ということの練習です。自分の言いたいことを言うための材料として「聴く」のではない「聴く」というのは、謙虚さが必要なのだと痛感します。今の自分ではなんでもできるわけではなく、できるようになることが目的ではなく、周りに迷惑をかけない配慮が必要だと思うと、これもまた、仲間や天に「聴いてみる」ことから始めたいと思います。また、どちらかが配慮しているばかりの組織にならないように、そんな状態を作らないようにするにはどうしたいいのか、これもまた一緒になって考えていけたらと思います。

  4. コメント

    子どもたちが自ら育つための環境を用意する、その言葉自体はきれいなものに感じますが、同じ行いでもその背景にある心によっては似て非なるものになるのかもしれません。相手への寄り添いがない状態で作られた環境では、どこかに「こう育てよう」という傲慢な気持ちが入ってくるように思えます。研修も、そしてどのような関わりも、思いやりや寄り添いのところから始めていきたいと思います。

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