むかしのいのち~もったいない~

昨日、聴福庵のおくどさんの間の天井煤竹の残りで装飾などを行いました。煤竹は、丈夫で傷まないのであらゆるところに活用することができます。飴色に美しくしなるこの竹は歴史を生き抜き燻されたいのちの凄みを感じます。

今の時代、何でもすぐに加工して大量生産をして本物に似たようなものを作ることができます。本物風の似て非なるものが、席巻しているこの時代では時代の篩にかけられて生き残ったものは古臭いものとして捨てられていることが多いように思います。

しかし少し考えてみればわかります。

この本物の煤竹を作ろうと思ったなら、100年から200年間、囲炉裏の上で日々に燻し続ける必要があります。そんな時間と手間暇をかけてつくろうとしたら、出来上がるのにこれから100年から200年待たなければなりません。ホームセンターなどで売ってある煤竹は、見た目は飴色風ですがこれは機械で一気に燻し加工することで本物風に似せているものです。

もしも先ほどの100年から200年の煤竹の大量注文をお店が頼まれたらすぐに「品物がない」と断るはずです。また「200年待ちでもいいですかと聞いて「はい」と答える消費者はいない」と答えるでしょう。

簡単に真似できるものと、真似できないものがこの世にはあります。いくら似せても、歴史や時間は似せられないのです。

私は伝統というものを考えるとき、かけてきた時間の長さを感じます。

人間は誰でも寿命を全うしたいとは願うものです。そのために、いのちを永く使い切ろうと大切に用いてきたのです。「もったいない」という言葉の本質や背景には、このいのちの大切さが籠められているのです。

そのいのちを加工して時間を懸けずに簡単に作りこまれて消費しては捨ててゴミにするという世の中では、いのちの価値もまた失われていくように思います。

すぐに加工して使える物を欲しがる風潮は、人間にまで影響を与えすぐに加工して使える人間を欲しがるようになります。

本来、時間をかけてそのもののいのちをじっくりと感謝して使おうという価値がもったいない心を育み、自然の智慧を活かす風土環境を醸成したように思います。

むかしのいのちの価値観が失われてきている現代において、子どもたちの感性にも影響を与えてきているように思います。伝統というものは、その歴史の時間を通して先人たちが守り継続してきた思いや願い、祈りがあります。

聴福庵の天井に配置した煤竹には、そういう祈りや願い、思いが入っています。引き続き、子どもに譲り遺していきたい生き方を伝承していきたいと思います。

  1. コメント

    煤竹を天井に敷き詰める中で、竹一本一本の色の違いや曲がり具合など、煤竹と一言で言ってもその異なりと時代の重みを感じています。磨きながら煤竹と対話をすると、いろいろな声が竹から聞こえてきます。近所の古民家の天井板を床板とし柿渋で磨いた時もその声が聞こえてきました。このいのちの大切さもまた大事にしていきたいと思います。

  2. コメント

    「結果」や「効率」ばかりを求めようとすると、どうしても「ムダ」に見えたり、「不要な過程」に見えたりすることがあります。しかし、基本的に時間は短縮できません。短縮すると、意味が変わってしまうでしょう。ますますスピード時代になって、いつの間にか「時間をかけることの価値」「待つことの価値」を忘れてしまっているようです。ムダだと指摘されることもたくさんありますが、「その時間」を最大限に生かしていきたいものです。

  3. コメント

    天井に煤竹を敷き詰めて一本一本縛っていくのは、後半になればなるほど大変で時間のかかる取り組みではありましたが、その時間や手間をかける価値があると感じられるのは、そのもの自体が永い時を経てきたものだったからなのかもしれません。簡単便利に流されないよう「時間や手間をかける価値がある」と思えるものに、日頃から気づき扱っていくことを大切にしていきたいと思います。

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