聴福人の習慣

人の話を聴くのにおいて、「信じて聴く」ということは大切なことです。これはきっと善いことになっていくという信念で聴いているとも言えます。さらに話を聴くことの前提に、相手のことを丸ごと信じている状態になっている必要があります。

つまりは自分自身が聴ける状態であるか、それは自分自身が何を信じて話を聴いているか、自分の信じるということへの哲学や信念が聴くことに現れているのです。

よく話を聞くとき、正しいや間違いなどを指摘しようとするものです。それは信じて聴くこととはあまり関係がなく正しい答えを教えているだけです。正しい答えを聞くことはその人にとっては正解ではなく、その人たちが本当に欲しているのは信じてほしいということがほとんどです。

自分自身が生きていく上で、自分を信じられなくなる時、丸ごと信じて聴いてくださる存在に人は救われるからです。私もそれを幾度も体験しています。

今の自分があるのは、自分が信じることができなくなるような出来事で葛藤するときそれをじっと丸ごと信じてただ聴いてくださった方があったからです。

単に聞いて正論を教えてくれたことがあっても、それは長続きせずその場はわかった気になってもまたすぐに不安や心配になります。しかし丸ごと信じてくれた存在が見守ってくれていると思えると安心して不安も払拭していけます。

つまり心で聴くというのは、相手の心を信じるということと同義なのです。

聴くことができる人は、どんなことがあっても天の声だと素直にメッセージを受け取ることができます。そのメッセージは、「必ず天は最善にしてくださっている」といった全体善に原点回帰していくことを自覚するものばかりだからです。

だからこそ自分の心がどうなっているか、他人の話を聴く前に整えておくのが聴福人の実践なのです。そして聴福人であり続けるためには、日ごろの過ごし方に心を整える内省という習慣が必要になります。

丸ごと善で聴く、丸ごと信じて聴くというのは、日々の御縁を信じて前向きに明るく生き、生涯学習を続けて自己を修めていくという習慣を維持していくということです。私のこのブログもまた、聴福人の実践の一つです。

引き続き、子どもたちが安心して育ち、見守りを感じ続けられるように怠らず努めていきたいと思います。

  1. コメント

    関係が近ければ近いほど、聴くという難しさを感じますが、だからこそ分かった気にならず、知った気にならず、本当の想いを聴くことが必要なのだと感じます。自分自身をまず整える、日々の中で大切にしていきたい時間です。

  2. コメント

    「ちゃんと聴く」ためには、「聴くことが目的」でなければなりません。しかし、実際には、「応えるために聞いたり、あるいは、指摘するために聞いたりすること」が多いようです。相手の話を「評価し、判断しようとする」と、「自分の価値観で裁きながら聞く」ことになります。信じて聴くには、「相手の価値観ごとまるっぽ聴く」ということが必要なのでしょう。「聴くことが何かの手段にならないよう」に注意したいと思います。

  3. コメント

    子どものことを一方的に怒っている親の姿などを見かけることがあると、なぜ親だからといってそんなに偉そうになるのだろうかと思うことがあります。その親の偉そうな姿は自分の価値観で決めつけ思い込みで聞いている姿であり、そこに子ども心は悲しむのかもしれません。まず共感から入るということを何よりも大事にしていきたいと思います。

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