借り物

加齢と共に体の調子が悪くなることが増えてきました。というよりも、体の声を聴くことができるようになってきたといってもいいかもしれません。「今日の体調はどうかな」などずっと若いときは少しも考えたことがないほど健康でやってきました。やりたいことがあればそれをやる、そしてそれをやるだけの十分な体力がついてきていました。

しかし次第に疲れが取れにくくなったり、あちこち痛みやすくなったり、無理をした古傷が傷んだり、体が今までと同じようには動かなくなります。そう思うと人生を80年で割ったとしてもちょうど40年くらいをピークに、衰退していきはじめるとも思えます。そのピークの時が更年期でもあり、体も他の心と精神の元氣のバランスを保とうと揺らぎ始めるのかもしれません。

元氣には様々なものがあり、よく気力体力精神力などというようにあらゆる力の源になっています。生き物はすべてどこかからエネルギーを転換して、元氣を発揮していくとも言えます。その元氣を発揮するために、あらゆるところから力を捻出してきますが何度も何度も使っているうちに劣化していきますからそれ相応の力を別のところから借りて元氣を維持していくものです。

若いときは、親からお借りして頂いた力をそのまま使い切っていく。そして次第にその力が失われ周囲の仲間や友人や愛する人たちから頂いた力をお借りしていく。そしてさらには世の中や自然の力、そして他力をお借りしながらまた力を使っていく。最後は借りたものをお返ししてこの世を去っていき次の時代の力の礎になっていく。そうやって力は借りたものをまたお返しします。そう考えると、力の本体とは何か。それは「借り物」であることに気づくのです。

この体もこの力も自分のものと錯覚しがちですが実はすべて借りた物なのです。その借りたものを大切に預かり、それをお返しする。そして次の人たちや生き物たちがその力をまた借りて生きていく。借りたものが循環しながら私たちは元氣をいただいて暮らしているということです。

自分の力だと何でも思い込み、不平不満を言うのはこの借り物であることを忘れているのかもしれません。大切な借り物だからこそ、丁寧に大事に手入れしながら使い切っていく。それが力を使う、つまり力を活かすということでしょう。

体の声を聴きながら、借りものを粗末にしないよういのちを大切に元氣をいただいていることを忘れないように謙虚に素直に生きて子どもたちの力に譲っていきたいと思います。

  1. コメント

    体調を崩した時に健康のことを考えますが、日頃は意識せず身体を使っていることを思います。学生時代の部活で足などを怪我することはあっても、それは健康のことというよりは、外傷への困りごとだったのだと振り返ると感じます。走ることも、誰かの応援によって走り切れることがよくありました。借り物だと思うと、なおさら、日々丁寧に生きること、そして今を味わうことを大切にしていきたいと思います。

  2. コメント

    「自分のものだ」と言ってしまうと、「どう使おうと私の勝手だ、放っておいてくれ」ということにもなりかねません。しかし、これが「借りものである」ということになると、話は一変してしまいます。そこには、大事にするだけでなく、「生かし切る」という責任も生じます。あらゆるものが「お借りしたもの」であり、自分の好き勝手にしていい訳ではないとともに、「何のためにお借りしているか?!」ということも再認識しておきたいと思います。

  3. コメント

    「みなさんのおかげです」よく聴く言葉をではありますが、それが自然と本心から出せたり、そのみなさんの中にどれだけの広さがあるかは人それぞれのように思います。自分自身の思いや願いも自分のものだと錯覚すれば、いつしかそれは私欲や我に変わっていくのかもしれません。借りものとして有難く使わせていただこうと思います。

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