志半ば

私が起業したての頃、郷里で志を同じくする仲間ができました。その仲間の一人が昨年、志半ばで斃れて亡くなりました。あれから9か月過ぎ、彼のご両親と同志と一緒に改めて生前のこと、彼の人物、その人柄を語り合い懐かしみ共に心を寄り添い供養をしたような有難い御縁と時間になりました。

彼は志半ばで逝きましたが、改めて思い返せば返すほどに志に生きた素晴らしい人物であったのを感じます。何よりも自分の会社を愛し、生き方と働き方すべてを一生一体となり、何よりも働くことにおいては同志を求め、そして同志たちに深く愛され、目的を最期まで手放さずに遣り切りました。その生き方や生き様は私たちの人生の中に生き続けており、この後、道を引き続き歩む私たちの養分になってくれているように思います。

人間の生死は自然であり、不自然ではありません。いつ生まれいつ死ぬか、それは天にしかわかりません。しかしその一生において、何にいのちを懸けたかはその人だけのものです。つまりは生き死には決められなくても、どう生きるかは決めることができるのです。

自分の決めた生き方を貫いた人は、後に続くものたちへの追い風になります。その追い風は、どんな逆風の時でも逆境の時でも柵となり流されないように支えてくれます。同志の存在は時空を超え、場所を超え、志という絆によってお互いを強く支え合い前進するための原動力になります。

彼の生前の生き方をこのタイミングで知れたことは、私にとってもかけがえのない出会いになりました。不思議なことですが、出会いは亡くなってからの出会いもあるということを知りました。むしろ亡くなってからの出会いの方が、生き方や生き様、その「思い」との出会いですからより純粋に道を紡ぎやすくなる感覚がありました。

何かをすることで同志というのではなく、何のために生きるのかを求道したからこそ同志と呼べる。

業務や仕事内容、会社の違いなどはたいした問題ではない。本当に大切なのは、何にいのちを懸けたかという生き方の問題なのです。その何とは、目的のことです。目的が同じかどうかを確認することなしに、仲間を簡単に同志とは軽々しく言ってはならないと私自身も考え直す機会になりました。

最後に、彼を思い返せば返すほどに司馬遼太郎さんの時代歴史小説の中の「竜馬がいく」の竜馬のように飄々としてふざけていて明るく前だけを向いて笑って理想に生きた人だったような気がしました。この竜馬の言葉を彼の生き方に照らしつつ同志に手向けます。

「人の一生というのは、たかが五十年そこそこである。いったん志を抱けば、この志に向かって事が進歩するような手段のみをとり、いやしくも弱気を発してはいけない。たとえ、その目的が成就できなくても、その目的への道中で死ぬべきだ。生死は自然現象だから、これを計算に入れてはいけない。」

「業なかばで倒れてもよい。そのときは、目標の方角にむかい、その姿勢で倒れよ。」

「男子は生あるかぎり、理想をもち、理想に一歩でも近づくべく坂をのぼるべきである。」

・・・

「おのおの、その志のままに生きよ。」

・・・

道半ばで斃れてもその屍をこえてゆくのが遺された人たちの運命ですから、志を受け継ぎ残りの道を心ゆく迄歩んでいこうと思います。

また次の出会いが楽しみになりました、貴重な御縁と出会いをありがとうございました。

  1. コメント

    明日どうなるかは分からないと思いつつも、どこかのんびり過ごしている自分を感じます。どう生きるかを決めてきたつもりでいましたが、これまで決めてきたことは進路であって、生活のための手段であって、生き方ではなかったのではないかとさえ思います。そう思うと、「竜馬がいく」というタイトルも、とても深い意味が込められているのではないかと、想像が掻き立てられます。生き方を決めるだけではなく、貫く。その差が日々の生き方に表れのだと、心していかなければと感じます。

  2. コメント

    「志」の定義の中に、「生死を超えて」というのがあり、「自分一代で」と考えると、それは「野望」になるとも言われます。それは「何を成すか?!にこだわる」か、「何を目指すか?!に生きるか」の違いでしょう。「目的への道中で死ぬべきである」との言葉を胸に、生死を超えた生き方をしたいものです。

  3. コメント

    志とは心よりももっと先にある魂のようなもののように感じます。身体は老い衰えていき心は揺れ動くことがありますが、受け継がれてきた魂はきっと不動なもので、人はその思いのままに生きたいと願っているのかもしれません。誰もが曇るからこそ、人は純粋に志に生きる人に感化されるように思います。身心魂 三位一体、分かれないままでいのちを使っていきたいと思います。

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