いい道具

先日、いい会社やいい人など何が「いい」のかと書きましたがこれにいい道具というものもあるように思います。技術革新というものは、時代と共に何度も訪れますがそのたびにいい道具とは何かと道具を発明し開発する人々は哲学をもってその問いに正対していくように思います。

現在のように、何でも便利になってきてあらゆる道具に囲まれて生活をしていますがその中でいい道具に囲まれているかどうかはまた別物のように思います。

この「いい道具」とは何か、少し深めてみようと思います。

そもそもこの「いい」というものは、誰かにとってのみ都合がいいものである「いい」というものではありません。その「いい」になればその人はいいものでも他の誰かにとってはよくないものになっていきます。一つの「いい」だけに固執してそればかりをしていけばすぐに全体のバランスが崩れて悪いものになってしまうものです。

では何が「いい」のか、それは全体が調和するものです。別の言い方では「循環」するものということになります。全体が循環するものは、自然です。この自然に沿っているものが全体のバランスを調和するものですから中立で中庸、つまり「いい」ものであるのは自明の理です。

この「いい」ものは、例えばむかしの道具であれば自然物から創造され、それを使うことで自然を活かし、さらには最後は自然に帰るという循環のサイクルにしっかりと入っています。

古来よりいいものはすべて自然の循環の中にあり、自然の循環から外れてしまうものを悪いものとしているのです。その循環から離れてもしも一時的に、自分のところだけその流れが留まるようにいくら操作してもそのうちそこが澱み腐っていきます。それが天地自然の法理だから何人たりともであってもそれを変えることはできません。それが機械であろうがAIであろうが、無理なものは無理、それが道理というものです。自然の力は偉大ですから私たちの想像を超える天災や自然災害などによりその道理に気づかされます。むかしの人たちは、それを自覚していました。ひょっとするとかつて何度も文明実験を繰り返してその境地に達したのかもしれません。文明と文化の和合はその時代を生きるものたちの使命です。

長くなりましたが自然の循環を毀さないようにすべてのものは働いているのが自然の摂理です。そしてこの自然の摂理に沿ったもの、それを私は「徳」ともいいますがこれが循環することによって世の中が他と支え合い共生しているのです。

いい道具を創る人は、いい人が使う道具を造る必要があります。いい人といい道具は、自然の力を引き出してより徳を活性化させ循環を促進していきます。

子どもたちに「いい世の中」を譲り渡していけるように今、やるべきことに専念していきたいと思います。

  1. コメント

    「便利になってきてあらゆる道具に囲まれて生活をしていますがその中でいい道具に囲まれているかどうか」という問いに、今の生活で思い浮かぶものは重ね煮の土鍋です。野菜の旨味を活かすというのも、自然に沿っているからなのだと思うと、鍋の端っこを擦って欠けたりしていますが、大事に丁寧に扱っていきたいと思います。

  2. コメント

    うまくいっているものというのは、そこに「自然な流れ」があるのでしょう。しかし、私たちは、自分に都合のいいところだけを切り取って利用しようとしたりします。「自分に都合のいいもの」だけを集めても、決してそこに流れはできないでしょう。また、「道具を使う」という姿勢も、ときに傲慢なのかもしれません。大調和のなかでは「使われ、育てられる生き方」もあるかもしれません。

  3. コメント

    私たちの肉体もまたある意味では道具と言えるのかもしれません。不自然な環境の中で色々と影響を受けては不自然な治療を施していく悪循環にみまわれたり、いつまでもと願うことは循環から外れることとは知りながらもやはりそれを望むのは人間らしさのあらわれのようにも感じられます。自然の一部として一度きりの日々の御縁や機会に誠を盡していきたいと思います。

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