心を許し合える環境

現代のような比較や競争社会の中で、素直に心を許せる関係が持てるというのは有難いことです。自分の長所や短所、情緒、人間性、癖や性格などもある程度は理解し合っていてそれでも本音で自分を明かすことができるような場所は安心基地でもあります。

そういう意味では人は警戒心をどこか持っていて、簡単に心を許すということは少ないように思います。誰を信じてよいのか、誰なら本当の自分の気持ちを理解してくれるのか、言い換えれば自分の深いところを分かり合える人に出会えることは仕合せなことかもしれません。

安心した環境というのは、警戒心がなくていつもの自分のままでいられる環境のことです。

人はどのような時に警戒するのかを考えればわかりますが、誰かに監視されている時や、痛めつけられるとき、無視されたりイジメられるとき、怖くて不安な時、敵がいると思ったとき、自分を守ろうとするとき、自信がないとき、つまり防衛しようと思って警戒が強くなり余計に不安な環境を産出してしまいます。

不安な環境というのは防衛の姿勢ですから、自分のポテンシャルも最大限発できませんし協力ができずパフォーマンスも落ち、仕事も成果も遣り甲斐もやる気も落ちていきます。

そういう意味では、一人一人が警戒しなくてもよい環境を醸成することがみんなが居心地がよい環境を創造していくことになるのです。警戒心を解くことができれば人は自分のあるがままで全体快適な環境の一部になっていくのです。

警戒心がない存在といえば、赤ちゃんです。

赤ちゃんをみれば私たちはすぐに警戒心を解き放って子どものように話しかけてしまいます。周囲も笑顔になり、つい安心できる温かな雰囲気に包まれます。赤ちゃんは防衛などしておらず、ありのままの自分で周りを信頼しています。

私たちは大人になっていく過程で、自分の身を守る術を身に着けて必死に自分を守るために生きていますがかつてはお互いに信じ合うことで助け合いより居心地の善い平和な協働社會を築いた時代もあったのです。

ひとりひとりが安心するというのは、それぞれの発達の特徴や個性、考え方や生き方、性格など丸ごと理解しお互いに打ち解け合う必要を感じます。いろいろな人がいるからこそ善い、多様な価値観があるからこそ助け合えるとお互いにみんなを徳を尊重するような意識を持つ必要があります。

徳の社會というものは、天が与えた恩恵をそのまま生かし合おうという自分をも許し、相手も許すといった「心を許し合う」社會にしていくということでもあります。

そのためには自分の間違いも素直に許し、相手の間違いも素直に許す思いやりがそれぞれに育つ必要があります。つまりは「一緒に学び合い正し合い成長し合おう」といった共存共栄していく環境があるということです。

安心できる環境とは共存共栄できる環境のことなのでしょう。

子どもが安心して自分らしく活き活きと仕合せに生きられる世界になるように社業の改善を続けていきたいと思います。

  1. コメント

    「相手の反応が読めない、わからない」とき、不安になります。また、「反応が予想と違う、展開が思っていたのと違う」とき、急に警戒心が出てきたりします。そういう意味では、「安心」とは、先がわかり不安材料がないことかもしれません。しかし、それは、相手の問題ではなく「自分の認識力の問題」でしょう。まだまだ偏った見方をしているのかもしれません。思い込みや自分の方の偏りを修正する必要があるようです。

  2. コメント

    目の前で起きるすれ違いは大元のズレがそうさせているのだと感じます。中学の時の合唱際前にクラスの仲が悪くなり、些細なことでも言い争いが絶えませんでしたが、終わると仲が戻っていくように、お互いにとってストレスとなるものが除かれると安心するのだと、今思い返すと感じます。今では印象的な思い出にもなり、今でも根に持つクラスの友人はいないと思うと、時間が解決してくれることもあるのだと感じます。

  3. コメント

    先生方が安心して見守る保育を深めていく為には子ども理解が不可欠で、発達が見えるから相手に合った環境が用意できますが、もう一つ不可欠なものとして共に働く仲間への大人理解があり、現実としてはそちらの方が難しいという声が多いです。「子どもに大事にしてもらいたいものは、まず自分たちが」というポリシーに共感される方が多く、そんな先生方と同じものを見て一緒に挑戦していきたいと思います。

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