正しいよりも楽しいを~執着を手放すこと~

人は何かに執着してしまうと、なかなかそれを手放すことができません。ようやく手に入れたもの、もしくは手に入れたいと思うものが次第に執着を強くしていきます。執着には色々とありますが、自分が得たいと思っているものが執着になるのは間違いありません。執着に囚われれば、どうすればいいかとばかりに悩み苦しみます。

本来は、楽しかったものも執着するから苦しいものになっていきます。得られない苦しみ、思い通りにならない苦しみが余計に執着を強くしていくのです。その執着の本質は我執や我欲であり、強くなればなるほど苦しみも比例して強くなるのです。

この我執や我欲は、自分のままでいられないことに起因するように思います。本来の自然体の自分、言い換えれば劣等感や罪悪感、自責感などがない状態、いわば幼い子どものままであれば執着はありません。ありのままの自分、あるがままの自分であることができるのならそれは何でも手放している状態です。

幼い子どもが、次の遊びに行くとき、それまで持っていたものをいともたやすく手放して次の遊びに移っていきます。好奇心旺盛で失う不安や怖さよりも、楽しい方を選択していくのです。手放すというのは常に楽しくあろうとする生き方を実践していくことのように私は思います。

楽しくないことが多いのは我執や執着が多いからです。我執や執着も時としては、自分の遣り甲斐や生きがいの原動力にもなりますがそれは楽しくあることが大前提であるときです。ただ苦しいのであれば、それは完全に執着に呑まれている状態ということです。

もっと気楽に、もっと楽しく、硬く握りしめて緊張状態を維持するよりもリラックスをし思い通りにならないことを面白がり、天にお任せしたら信じて今の境地を味わおうとすることで手放す訓練ができるように思います。

苦しいから楽になりたいという楽ではなく、楽な状態でいるから楽しくなるという工夫が自分を自然の姿に回帰させていくようにも思います。こうでなければならないや、こうあらねばならないといった正論や自己正当を少し休めてこのままでいい、きっとこれでいいと「正しいよりも楽しい」を選択していけば執着はいつか手放すことができると思います。

子どもたちの生き方から学び直し、楽しい方を選んでいきたいと思います。

  1. コメント

    苦労して手に入れたものや時間をかけて手に入れたものなど、やっと手に入れたものは、手放しにくいものです。いつの間にか、それが「自分の一部」になってしまい、それを失うと「自分でなくなる」のかもしれません。手放せないものを手放そうとしてもなかなかできません。そういうときは、「がんばる」のではなく「切り換える」ことが必要なのかもしれません。子どもたちのように、無執着で次の遊びに切り換えたいものです。

  2. コメント

    槇原敬之さんの『僕が一番欲しかったもの』や映画『ペイフォワード』が頭に浮かびました。素敵な歌と素敵な映画で、好きな作品の一つです。いいなと思うのは、自分の中でもそうしたい、誰かに喜んでもらいたい気持ちがあるからだと思います。ただ、コントロールを失い暴投がつづけば、野球だったらピッチャー交代です。一度休んで次の機会に臨むような、自分自身を見つめ直すことが大切なのだと感じてます。

  3. コメント

    暑がり・寒がり順の席順一つでも感じ方は違い、また「暑い」という認識も人それぞれであることを思うと正しいや楽しいも人によって違うものなのかもしれません。公園の砂場などで、楽しそうに遊んでいた子が玩具を手放すと次の子が待ち構えていたかのように楽しそうにそれを手にする姿を見ます。楽しんだ子が手放して次の子の楽しさに繋がるのは好循環ですが、楽しそうでないものや次に楽しく手にしてくれる子がいなければ留まるように思うと、好循環させていく工夫というものも同時に必要になってくるのかもしれません。

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