かんながらの与贈

先日、贈与という言葉は聞いたことがありましたが「与贈」という言葉に出会いました。贈与はある人が誰かに無償で財産を贈ることを言います。しかし与贈になると少し意味が異なってきます。

その「与贈」について、場の研究所のフェイスブックにこう紹介されていました。

「私たちの「与贈」は、正確に言えば「〈いのち〉の与贈」です。いまマザー・テレサの愛のことばの本を読んでいたら、次のようなすてきな言葉に出会いました。『愛は分かち合わなければ、何の意味もありません。愛は行動に移されるべきものです。見返りを期待せずに愛さなければなりません。愛そのもののために何かをするべきで、何かを得るためにするのではありません。見返りを期待するなら、それはもう愛ではないのです。本当の愛とは、無条件で、何も期待せずに愛するということだからです。』(清水紀子訳)これほど「与贈」という行為の意味を正確に伝えている言葉に出会ったことはありません。場の研究所で、私たちが「〈いのち〉の与贈」と、〈いのち〉をつけているわけは、人間以外の生きものにも〈いのち〉の与贈循環を広めて、持続可能な地球をつくりたいと思っているからです。」

これは私の思う「徳」と同じです。愛を徳に換えればそのまま与贈ということなります。

私たちのいのちの中で永遠永久に存在しているものがこの循環している愛や徳、与贈です。それは生死を問わず、なくなっているようで存在し、宇宙の中にずっと積み上げられていくものです。

むかしの人は、それを「徳を積む」という言い方をしました。これは愛を与えることと、真心を盡すこと、そして自然が循環することがいのちそのものの本体だと気づいていたからではないかと私は思います。

そして私たちが今あるのは、かつてのいのちたちの屍の上で存在しています。時空を超えてめぐりめぐっているいのちの中で自然宇宙の中の恩恵そのものの偉大な場を舞台にして私たちのいのちそのものは何かによって活かされているということです。

当たり前ではないこの「場」の存在に如何に気づいて、自分をその「場」ではたらかせていくかがいのちそのものに同化していくことであり自然になることです。人類が永続する道もまたこの「場」に対する生き方次第です。

徳を色々な形で学び、その徳を如何に循環させていくかを私のかんながら(自然)の与贈から伝承していきたいと思います。

  1. コメント

    「愛そのもののために何かをするべきで、何かを得るためにするのではない」というマザー・テレサの言葉はすべての原点のような気がします。「何かを得るために」という私利私欲を持ち出し、理由をつけた途端に、あらゆるものが「素直」でなくなり「自然」でなくなるのでしょう。「説明をしようとする」ところに大きな落とし穴があるのかもしれません。

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