百姓の心

「百姓」という言葉があります。現在は、あまりこの言葉を聞くことも見ることもなくなってきましたがむかしはほとんどがこの「百姓」によって国家の基盤を担っていました。

この百姓のイメージは、農業をやっている人たちのように思われていますが元々は「百の姓を持つ人」という意味で、たくさんの仕事をもっているから百姓と呼んでいたのです。

農業だけではなく、大工に左官に商人に神主に医者にと、ありとあらゆるものを複数に兼業してきました。よく考えてみたら、お金で今のように専門家と専門分野に分かれて職業と仕事を分けている時代と異なり、ありとあらゆる人たちが自分たちの得意分野や才能を発揮しながら助け合って暮らしをしてきました。

食べるものは自分でつくり、社會に役に立つように自分の徳性を活かして協力し合い暮らしを一緒に創造していきました。

現代は、個々がバラバラになり、お金を中心に必要なところで費用を支払いサービスを受けられる便利な時代になりましたが一つに一つの分野だけで自分で食べ物をつくらなくなってからどこか本来の助け合いの暮らしが消失してきているように感じます。

みんなそれぞれに生まれ持った才能があり、徳性がある。それを上手に活かしあうことで文化を守り、工芸を含め、民藝なども守り継承していきました。今では素人とプロが明確に分けられていますが、むかしは百姓というようにみんなそれぞれに芸術や文化、工芸などを自分で習得しそれを子孫に継承していたのです。

古民家に関わると、様々なことを自分でしなければなりません。分野別にプロに頼んでいたらほとんどの家の暮らしができません。あまりにも難しいものはその道の長けた人に依頼しても、日々の暮らしの中の修繕は自分の手で行う必要があります。

しかしこの修繕こそ、まさに百姓の仕事の醍醐味です。私たちは、自分で創り自分で直すといった当たり前のことを已めてしまうことで大切な学びの機会を失っているのではないかと思います。

暮らしの美しさに触れる機会が減り、何が善で何が真実か、そういったものを自然から学ぶことがなくなってきました。人工物だらけで、修理も修繕もできない物に溢れているうちに私たちはその暮らしの中に息づいている繋がりや絆などを受け継いでいくことを忘れてきています。

みんな祖父母や先人たちが行ってきた、物を大切にする心や、物を活かす心、そして丁寧にいのちに接していくことなども百姓の消失とともに失われてきました。このまま子どもたちに百姓が伝承されなければ、その百姓の心もまた伝承されないでしょう。

子どもたちが暮らしや自然から真善美の別を学び、それを自分の徳性を伸ばし積むための材料になっていくように百姓の心を伝承していきたいと思います。

  1. コメント

    自分が苦労して育てたものや、自分で作ったもの、あるいは自分で修繕したものには「愛着」があります。また、自分が大切にしてきたものや、自分が磨いたところ、自分が綺麗にしたところも「愛着」がわくでしょう。この「愛着」こそが「心の繋がり」です。「愛着」があれば、丁寧に扱いますし、不具合等も気になります。壊れたまま放っておくこともしないでしょう。「意識して大切に扱う」のではなく、「愛着によって自然と繋がっている」ような一体感のある生き方をしたいものです。

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