徳積社會

時代の節目には、色々な人たちが新しい活動を増やしていくものです。そのいくつかの活動は前例にはないものですから周囲から色々と賛否両論が発生するものです。しかしそんなものは歴史をみれば当たり前に行われていたものであり、今更新しくはじまったものではありません。

明治維新の頃などは、吉田松陰などは狂人と名指しされ、地域の人たちからも頭がおかしいから近づくなといわれていたようです。そしてその本人も、仲間や弟子たちに「狂いなさい」と指導していたといいます。そして「思想を維持する精神は狂気でなければならない」とさえ言っています。

つまりは、空気を読めるけれど敢えて読まないという生き方。シンプルに言えば「正直であれ」と説くのです。

天地に照らして正しいと素直さを学問を通じて磨いたうえで、自分の心に正直に思う心があるのであれば、それを自分自身が裏切ってはならないという具合です。それを別の言い方で「至誠」とも言いました。これは吉田松陰の座右の銘です。

時代が変わっていくというのは、それまでの常識や正論が音を立てて崩れていきます。別の国にいけば別の常識があるように、環境が変わればそれまでの常識も変わります。環境と同じく時代が変われば同様に常識も変わるのです。

その中である意味で時代に適応していく人たちは一応にして空気を敢えて読みません。世間からは、変人奇人扱いされますが本人たちにとっては時代の変化が観えているのだから気にもしません。賛否両論あろうが、本人にとっては至誠や正直を貫いているだけです。

つまり正直の徳というものは、もっとも最高の智慧であり磨き上げて洗練された本質の姿です。本物であるともいうことです。これを正直と定義するのです。正直であり続ける人は、自分の心を偽らない人です。その正直さこそが、徳の本体だと気づければ社會は自ずから徳積社會に近づいていきます。

私が取り組む、徳積財団はまさにそのようなものを顕現するための活動基盤の場を目指しています。

子どもたちがどんな時代でも自分らしく正直に健やかに生きられるように、徳積社會を広げていきたいと思います。

  1. コメント

    時代を創ってこられた偉人で、生前にその役割を正しく評価された人はほとんどいません。中には、未だにその働きを評価されていない人もおられるでしょう。その評価は、未来に託されています。しかし、皆さん見事にその使命に素直に生きられました。そういう素直な生き様でないと天には通じないでしょう。人の評価に振り回されて、自分自身を裏切らないようにしなければなりません。

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