いのちの存在

現代は、世界のほとんどは西洋化が進み物質文明で覆い隠されていきましたから物はいのちではなく物として扱われるようになりました。それは最初は、無機質な道具類や建物、通常人間のように動いているように見えないものからいのちではなく物として接していくようになりました。

そしてそれがさらに大量生産大量消費の刷り込みの中で、動いているものやいのちがあると信じられたものまで物になっていき次第にいのちそのものが見えなくなっていきました。

いのちが見えなくなってしまえば、最後は自分のいのちすら物になっていくかもしれません。物のように接していくというのは、言い換えればすべて物にしていくということです。これが文明の持つ課題であり、文化はそれを常にバランスを保ってきました。

現代は文化が急速に衰退させられ、一時的に文明ばかりを追い求めていきました。それは物化する過程だったように思います。本来、地球は物か?そして海は物か?さらに宇宙は物なのか?最小単位ではウイルスは物なのか?という問いにたどり着くはずです。

そもそも物ではないと悟るのなら、何を自分たちが改める必要があるかが自明します。そしていのちの存在に気づくのなら、もっと大切にしなければならないことや優先すべきことがわかります。

人類は、今、大きな分岐点に来ています。ここで気づけるか、それともこれでもまた同じことを繰り返して覆い隠し続けるか。大事なことは気づいた人が、まず自分の足元から換えていくことです。そして私と同じように、古い物のいのちの力をお借りしていのちを甦生させ、いのちの存在に気づかせていくことです。

引き続き、子どもたちの未来のためにも徳を磨き挑戦をしていきたいと思います。

  1. コメント

    「意識」しないものは、目の前にあっても見えません。この「意識」は、もともと「存在するもの」を、自分の都合で「必要か必要でないか」「有用か無用か」などと分けてしまいます。また「愛着」のないものは、その「価値」が見えません。「価値」を感じないものは、邪魔者扱いされ平気で壊され、捨てられてしまいます。結局、「見えない、感じない、わからない」のは、自分のいのちと繋がっていないからでしょう。あらゆる面で、一旦「自分(たち)の都合」を外す必要があるのかもしれません。

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