場の実践

場道の実践の中に、プロセスを味わうというものがあります。これは経年変化を味わうことにしています。すべての物はモノではないものの証拠に、変化するということがあります。つまりはモノはコトと常に表裏一体ですから、そのモノがあるということは何らかのコトがあったということです。その逆に、コトがあるというのはいつかはモノになるということです。

これは思想と文化の関係にも似ています。そして心と場の関係とも同じです。つまり私たちはご縁という偉大なつながりの中で、様々なところで結びつき合い揺らぎ合います。

これが私が取り組むブロックチェーンの目覚め思想の源泉としているものです。

話を実践に戻せば、私たちはゆらぎのなかで様々なモノやコトを動かしていきます。それが生命の原理であり、私たちの観ている世界とはその繋がりの中での波動のようにゆらゆらと変化してはまた音を奏でます。

そしてそのプロセスの集積は、歴史となり現在の私たちの姿かたちを形成していくものです。頭で考えられる範囲、目に見える範囲のものでは場は語ることはできません。「場」とは、その連綿とつながってきているものを直観し、そのつながりと関係を結び直すときに顕現してくるものです。

私が、場と道を組み合わせて「場道」としたのもまたこの両輪は同一であり、その両方の単語から意味を伝えることができるからです。つまり「場は道なり、道は場なり」ということです。

こうすると別の言葉にすれば、コトはモノなり、モノはコトなりともなります。そしてその中間にあるのが「プロセス」ということになるのです。

プロセスを重んじないというのは、コトを単なるモノにし、モノも単なるモノとなる。つまり単なる機械や部品、結果だけしか判断しないというデジタル的な思想でいのちを無視するという仕組みを使っているということです。いのちを無視するのは、いのちを無視しても得たい結果があるからでしょう。

こんな意識がこの先の世紀を乗り越えるとは思いませんし、いつかこの間違った資本主義の思想は淘汰されるのは火を見るより明らかです。私が、取り組んでいる志事は人間が本来の人間性を大切にした徳循環の社會を取り戻し甦生させることです。

子どもたちが安心して暮らしていける世の中になるように、ゆっくりと急ぎ遠回りしながら王道を歩んでいきたいと思います。

  1. コメント

    気が付くと、「アナログの世界」はどんどん「デジタルの世界」に変わってしまいました。この「アナログの世界」が、時間の概念とその価値観を変えてしまったのかもしれません。いのちは「変化」であり「経験」でもあります。その一分を切り取っただけでは、いのちの本質は見えませんし味わうことができません。「結果」というのは「プロセス」の一部であり、ほんとうは「すべてプロセス」なのでしょう。

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