文字を記す意味

人は頭で理解するために文字を読みますが、共感するためには実際に体験するか実践している現場を感じるかといった感覚を用いるものです。最初は文字から入ったとしても、そこに共感できるものがなければその文字は本当の意味で自分に入ってきているわけではありません。

人間が文字を読むとき、それは自分の体験や経験とアクセスしてそれを補完して仮想体験をしています。それを実際にするには、その後にその文字にあるような体験をしたり、似たような境遇を経験してはじめて共感して文字が自分のものになっていきます。

人間は文字を通して学びますが、文字が自分のものになるのはずっと後の事です。

学校で私も文字を学びましたが、その文字は暗記によって覚えましたが時間が経てばすぐに忘れていきました。そしてその文字をいくら知っていても、体験したわけではないからその文字が人生の役に立つことはあまりありませんでした。

例えば、火の熾し方などは縄文時代から現代までどうやって火を使ってきたか、どの道具をどのように使えばいいかは知っていました。しかし実際に、木や炭から火を熾すことは簡単にはできませんでした。これは何度も何度も経験してからはじめてできるようなるわけで、文字はあくまで知識としては得ますが実際の生活にはそのままではあまり役に立つことがありません。

何かを伝承するときにも同様で、記録としては文字があってもそれを経験して体験し共感した関係がない限りそれが実用として実践し続けることがないのです。

私は古民家再生をしている人になっていますが、建物を直しているのではなく日本文化の甦生や、大和魂の継承、民族伝承の智慧を遺すことなど、子どもたちのためにと思って取り組んでいます。言い換えれば、子どもの仕事をしてきた体験や実践をたまたま古民家でやっているだけで古民家甦生が本業ではないということです。

子どもの仕事というのも、直接的な子どもの仕事から、子どもとは関係がないように観えて本当の意味で子どもの仕事になっていることもあります。子どもの定義も、下位概念は年齢の小さな人間のことをいいますが上位概念は、純粋な魂や、清らかな心を持つ人のことを言ったりします。

つまり同じ「子ども」という文字を使っていても、その使う人の体験や経験、その人生の目的や生き方によっては別の意味を記しているのです。だからこそ、この「記す」という実践は大切なことで、発信し続けていくことで同志と切磋琢磨でき、仲間を鼓舞し合い、草莽崛起し合う縁をつないでいくようにも思います。

論語の「遠方より朋来る」の一文がありますが、あれもまた文字であって共感するものは別の次元、上位概念の中にあるように私は思います。

子どもの未来のために、これからも今を綴り続けて精進していきたいと思います。

  1. コメント

    「語り継がれるもの」は、伝える人によって変わっていくかもしれませんが、「書かれたもの」には、その人のその時の生き様がそのまま残ります。そいう意味では、時代を経てもその高みと対話できたりすることは嬉しいことです。そう思うと、自分の記すものがちゃんと対話に耐え得るものかどうかが問題です。どれくらいの深さでその言葉が使えているか?!そこから日々の体験の深さも振り返ってみたいと思います。

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