武士道~一期一会の生死~

昨日はあるご縁で佐賀に行きました。佐賀には、今から約300年前に「武士道」を口述した「葉隠れ」という書がありそのモデルとなった山本常朝がいます。

武士とは一体何であったのかの生き様をこの人物の一生を通して取り組んだ生き方がこの葉隠れには記されます。

もともと武士という職業があったのではなく、武士という生き方があったということでしょう。そしてこの武士の生き方は、日本人の精神性が武士という姿になって顕現しただけであり今の私たちにも大きな影響があるように思います。

武士とか侍とかいう何か、別のタイプのことを話しているのではなく一生をどう生きるか、そしてどうあるかを表現した時に、これを武士といい侍といってもいいという具合に感じることだと私は思います。

日本の風土や文化の中で醸成された生き方は、まさに私たちの魂の故郷であり時代が変わっても守りたい伝統文化です。私がそう感じた、山本常朝の言葉をご紹介します。

「慈悲より出づる智勇は本ものなり、慈悲の為めに罰し、慈悲の為め働く故に、強く正しきこと限りなし」

「武士たるものは、武道を心掛くるべきこと、珍からしからずといへども、皆な人油断と見えたり。其の仔細は、武道の大意は、何と御心得候か、と問ひかけられたるとき、言下に答へ得る人稀なり。そは平素、胸におちつきなき故なり。さては、武道不心がけのこと、知られ申し候。油断千万のことなり」

「人間一生誠に纔(わづか)の事なり。好いた事をして暮すべきなり。夢の間の世の中に、すかぬ事ばかりして苦を見て暮すは愚(おろか)なることなり。この事は、悪しく聞いては害になる事故、若き衆などへ終に語らぬ奥の手なり。我は寝る事が好きなり。今の境界相応に、いよいよ禁足して、寝て暮すべしと思ふなり」

「今の世を、百年も以前のよき風になしたく候ても成らざる事なり。されば、その時代々々にて、よき様にするが肝要なり」

「徳ある人は、胸中にゆるりとしたる所がありて、物毎いそがしきことなし。小人は、静かなる所なく当り合ひ候て、がたつき廻り候なり」

これらに共通するものは、如何に生きるか、そして同時に生死など度外視してあるがままに生きよと言っているように思います。

武士というと、何か戦のイメージがありますが実際にはある生き方を象徴したものであり私たちは一生の一度、一期一会に生きることを指したのです。日本人の生き方、先人の生き方でもっとも憧れるものとはこのような生き方を実践したということでしょう。

その後の子孫たちもまた、同様に一期一会の生き方を貫いて子孫に魂の輝きを伝承していきました。私もまたその一人になるべく「武士道に於(おい)ては死狂ひなり」と生ききり、死にきりたいと思います。

 

  1. コメント

    時代はいくら進んでも、卑怯な言動や欲得にまみれた姿を見ると黙っていられなくなる感覚は、私たちの中に今も『武士道精神』が流れているという証かもしれません。そういう意味では、私たちの中に「生き方としてのひとつの基準がある」ということは、日本人としての誇りでもあります。「現代における武士道的生き方」とはどういうものか?!を一日一日の中に見つけたいと思います。

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