美しい田んぼ

昨日は千葉県神崎にある「むかしの田んぼ」で稲刈りを行いました。例年のように田んぼの真ん中に「場」をつくり、その中で今年の恵みへの感謝を祈り、祝詞をあげてみんなで結んだおむすびをいただきました。今回も一期一会に色々な人たちがご縁でこの「場」に集まり、それぞれの思いや志などを交わし合うことができる豊かで仕合せな時間になりました。

この豊かさと仕合せは唯一無二であり、稲の育ち実る姿から、先祖から受け継いできたいのちの根がどこにあるのか、そしてみんなで一緒に暮らしていく喜びを感じました。

この体験はブログで書いても文字では伝わらず、写真や映像でも経験できません。一緒にこの場に来て、この場でみんなで味わってはじめてわかる感覚です。もちろん、入り口としてこういうことをしていることは発信できても、感じるものは同体験や経験を共にして味わうことがなければわかることもありません。

すぐに何でも知識や言葉で分かった気になる人が多い現代に世の中において、一見、意味もなくお金にもならず、合理的でもなく便利でもない、そして現代の世の中の潮流とまるで逆行するようなことを真剣に取り組んでいることにわかった気になりようがない体験をすることにこそ意味があるように思います。

知識や知恵の一端を知っただけで人間はわかった気になります。宇宙全体のことをほんのたったちょっとだけ齧っただけでさも自分は知識をたくさん持っていると思い込んでいたりします。

そこが傲慢であり、体験を怠る理由になっていることに気づいていない人がたくさん増えていくように思うのです。体験しないということが増えていくというのは、体験した気でいいという考えであり、先人たちと同じような美しい生き方を知らないままに死んでもいいということになる可能性もあるのです。

自分のいのちを何のために本気でぶつけていくか。それを夢に生きるともいいますが、美しい風土の中で、美しい風景、美しい恵みと育ち、美しい人々と美しい体験をする。

こうやっていのちははじめて、全開して輝き、その体験によってはじめて自己の存在がわかってくるのです。わかってくるのと分かった気になっているのとでは天地ほどの差があります。

分かった気になる人ほど、いのちを美しいものに使おうとしなくなっていきます。どうせ人間は誰しもいつかは必ず死にます。死ぬからこそ、いのちを何のために使うのかを決めていくのです。そしてそれは目的に対して純粋になっていきますから、他人の評価や刷り込みなどを気にしていたら時間がもったいない。だからこそ、あるがままに自分の信念や夢のために悔いのないように行動していくのです。

そしてそこから学んだ経験こそが唯一無二の本物の智慧になり、自己のいのちに触れて歓喜できるのです。

田んぼというものは、単なる農業ではなく人間が活きるすべてがここに凝縮されています。田んぼで学び経験することは、先祖の対話であり、子孫への伝承であり、分かった気にならないための道理を磨きいのちを甦生し続ける唯一無二の「場」なのです。

子どもたちのためにも、美しい田んぼ、美しいいのちをいつまでも守り続けていきたいと思います。

  1. コメント

    多くの人は、家と会社を往復する毎日を送っています。コロナ禍でその会社すら行かなくなっているケースもあります。振り返ってみると、昔は「人が寄る場」がいろいろありました。「田んぼ」以外にも、「お祭り」や「お葬式」などは、近所の人がお互い協力し合うことで成り立っており、そこには、先祖との対話や子孫への伝承の仕組みがありました。そういった職場以外の「場の復活」、あるいは「新しい寄り場づくりや働き場づくり」が必要かもしれません。

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