聖域の甦生

日本には古来から山岳信仰というものがあります。これは山は神の宿る聖域であり、子孫を見守る祖霊が鎮まるところと考えられていました。まさに山が信仰の源泉であるというのは先祖代々から根幹の意識があります。日本創生の神話の時代から私たちは山に深く見守られ、山から慈愛をいただき、山によっていのちを育まれてきたという思想です。

日本には富士山をはじめ霊山と呼ばれる山々が存在します。そして故郷にも故郷を代表するような山があり、私たちは暮らしを山と共に発展させ、山と共に築き上げてきた民族でもあるのです。

その山には、修験道というものがあります。これは山につくる道場のことで、山に入ることでいのちの原点を学び本来のいのちに還るような修行の場です。私は、日本では鞍馬山を大切深く尊敬しており山に行くことであらゆるいのちのインスピレーションを感じて自己内省をする修行をしてきました。そのことで人格を磨く機会を得て、実生活の暮らしを換える機会を学びました。

この「修験」道場という言葉の語源は、「修行して迷いを除き、験徳をあらわす」という意味だといいます。つまり「場」で実践し体験するなかで徳が磨かれ悟りを開く道のことです。

そして山岳信仰で有名な山伏は、山に伏して修行する者という意味で「山伏」と呼ばれるようになったといいます。山伏らは山を祀り、登拝して祈願し、舞や踊りを奉納し山を祈願の対象としてきた人々です。山での暮らしを通して日々を見つめ直し、新たな生き方を導いて人々の心の穢れを祓う役割を果たしてきたのかもしれません。

明治以降、明治政府の神道での国家統一による神仏分離令、その後の修験道廃止令の煽りを受けてそれまでの山岳信仰の伝統廃れ、戦後は宗教として生き残りはしましたが娯楽的な登山やハイキングなどが入ってきていよいよ山は単なる趣味やアミューズメントなどの一環になってきました。キャンプ場をつくり、グランピングなどができ、信仰の山という日本古来からの伝統のイメージが薄れてきているとも言えます。

本来のものが歴史の中で挿げ替えられていけばそれまでの系統が分からなくなってきます。そうやって人類は歴史をそれぞれの時代の価値観で歪めてきたとも言えます。しかし山は変わらずにそこに存在しています。

自然崇拝とは何ぞやといえば、その土地の風土や自然から本来の徳が顕現したものを悟り自ら自然に近づき謙虚に共生を学び直すことのように私は思います。私たちを産み育ててくださっている存在に気づき、その恩恵に感謝し徳に報いる生き方を実践することです。

何度も里に降りては人間は余計な争いや自然から遠ざかり心を痛めてきました。そんな人々が心を蘇らせ、徳を甦生させてきた場こそ、この修験場としての聖域であったのでしょう。

これから私は日本古来の思想とブロックチェーンを使った聖域をこの地に発祥させていくつもりです。自然を味方に、子どもたちに遺し譲りたい未来を創造していきたいと思います。

  1. コメント

    「入山」には、修業に対する覚悟が要ります。同じように「聖域」に入るには、乱れた波動を整える礼儀も必要でしょう。日々の仕事の忙しさや人間関係の煩わしさを抱えたままのざわついた状態では、神聖な場所も単なる観光地になってしまいます。乱れた波動を整えられる場が増え、そういう意識を持つ人が増えてくると、先人が見てきた日本の自然の精妙なる豊かさが感じられ、見えてくるようになるのではないでしょうか。

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