元氣の源

現在、徳積堂の前の桜が満開でひらひらと花びらが天空を舞っています。幻想的な風景にうっとりしながら季節の移り変わりの美しさに心が感応していきます。

心の感応は心の穢れを祓います。

つまりいのちそのものの変化、そのいのちの元氣に触れることでいのちはお互いにその元氣を分かち合うことができるのです。これが自然一体になり共生するということなのかもしれません。

私たちはいのちを観るとき、そのいのちと一つになります。つまり関係性というものは、お互いに一つであり夫婦和合のようなものです。この世は、分かれているものではなく関係性を結びながら一つになっているものです。それは、天地一体であり、あらゆる性質のものが統合しあって存在しています。

小さな変化に気づき、そのわずかな変化を味わえる人はいのちの豊かさの中に佇むことができます。この味わい深いいのちに触れるというのは、私たちはそのいのちの源泉に触れたということでもあります。

もともと元氣がなくなることを穢れ(気枯れ)と先人たちは表現しました。穢れないようにあらゆる工夫をして年中行事やハレとケというように仕組みにして文化を醸成させていきました。

つまり私たちが元氣をなくし気枯れるのは変化に気づけなくなること、味わうことをやめてしまうこと、マンネリ化することに原因があるのです。そうならないように私たちは四季折々の変化を味わい、移り変わりの妙味に触れていきました。

私はこれまで一期一会の生き方をしてきましたから味わい深い人生を求めて生きてきたのかもしれません。しかし、この関係性による夫婦和合の自然はつねに結ばれ縁起によってこの世を変化させていきます。

美しい生き方をして美しい風景を産み出せば世界もまた同時に美しい風景に変化していきます。万物が変化するのは、その時代に生きる人たちの生き方が風景に投影されているのです。決して自然と人間は分かれているものではなく、まさにその自然を換えるものは人間の生き方や観念でもあるのです。

自然環境と人間環境を分けることは意味がありません。

人間が善くなることが自然を善くすることであり、自然を善く観ることが人間をよく観ることになり、それが心の風景を変えることになるのです。心の風景が変われば、私たちの世界がガラリと変わります。

子どもたちにも自然の妙味を感じて元氣いっぱいに発達していけるよう、生き方を通して見守っていきたいと思います。

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