解釈

昔もあったのだが今の時代、特に大衆の間に増えたのは「ツカレ(疲れ)」だろう。
つまり肉体的なものではなく、精神的なものがそのツカレと定義している。

肉体的な疲れは、ゆったりと休めば休むことができる。
しかし精神的なツカレは、ただ同じように肉体的に休んでも「癒す」ことはできなかったりする。

先日、スタッフと食事をしながら「休み」の取り方について話し合ったことがあった。
ただ休んで一日が終わるという暦以外の休息を取ってはどうかとのことだった。

意図的に皆でスポーツをしたり、自然界と触れ合ったり、ランチをゆったりとったり陶芸やそば打ちに行ったりと・・・関係性やストイックにジブンを見詰ることからくるツカレを癒すために工夫しようとするものだ。

日ごろ本気で生きていると肉体的にも精神的にもツカレは来る。
そして精神的なツカレは、別の癒しによって得ようとする「解釈」だ。

認知療法の提案者であるアーロン・ベック教授がこう提唱している。

   「私たちの感情は外界の現象が直接引き起こすのではなく、
         現象の『解釈』が引き起こすのだ」

同じ現象が起きたにせよ、まったく違った解釈ができれば感情に左右されず静寂とあるがままの自分で在れるということだ。

たとえば、日本人的な身近な話では天候というものがある。

大事な日に雨が降る。

この現象をどう解釈するか。

ある人は、服が汚れるし、ジトジトしてイヤだな・・もう今日は何もしないと思う人。

ある人は、雨だ、今日は以前持ってたレインコートが着れるので嬉しいと思う人。

ある人は、きっと植物も私も地球も大喜びだなと自然に思う人。

このように「解釈」によってしか、精神的な感情が引き起こされないということだ。

人生に於いて、生きていれば色々な出来事が日々起きるし起こる。
その起こることを止める為に必死になるよりも、もっとその「解釈を工夫する」ことがよりよい人生の定石になるのではないかと私は思う。

目の前に、そして足元にすべてのモノがあるのに探し続けることがどうなのだろうかと以前ある本で読んだことがある。

頭の上にメガネをのせているのに、メガネがないないと必死に探しているようなものだ。
メガネを探すのをやめ、メガネがないことをちゃんと良い方へ「解釈」すればきっと「気づいて見つかる」のだろうと私は思う。

しかし、世の中にはそのメガネを曇らせる社会の価値観が無数に点在している。昔よりもテレビに雑誌にメディアに、、、日々振り返りや内省をしてジブンを保っていなければあっという間にアチラの価値観へ持っていかれてしまう。

そしてそこで無意識のうちにメガネが汚れて曇ってしまっているのに、無理してモノゴトを見ようとするとまったく純粋な心でモノゴトがあるがままに視ることができなくなる。
そして今度はそのメガネをつけたままの心で無理にでも強引に心を振り絞って見ようとするときにその『解釈』が間違った方へと感情を導くのだろうと思う。

ここで私が間違うと定義しているのは、前に進むことを止め、一切を已めようとするということだ。

常に大事なことは、まずはその曇ったメガネを外すことを意識することなのだと思う。

以前、ブログで書いた「素直」さというのはそういうことだ。

しかし、もしその判断した現象が良い方へ向かうこともあるのが現象としての事実だとしたら。
その現象として受け止めることは、そこに悲しみではなく寂しさ、絶望ではなく「希望」をしっかりと遺してあげることだろうと思う。

子ども達も色々な環境の下で育っている。
生まれた場所も違うし、親も違う。

世の中に現れている現象をどう解釈してあげることができるのだろうかと思う。
その子のことを思えばどうにもならない現象を大人が已めさせるよりも、現象をオトナとして「解釈」することを伝えてあげたい。

きっと、仏教でいうお「釈」迦様のような「解」を持てるようにと子ども達の未来のためにまずは大人である自分、まずはそのオトナのジブンの襟をしっかりと正して日々粛々と歩んでいこうと再び誓う。

  1. コメント

    私自身も生きている中で何でこんな事に気づけなかったのかと思うことが今でも多くあります。もちろん今改めて気づく事が出来る環境に感謝を忘れてはいけないのだと思います。しかし今の世の中は、素直な気持ちで疑問を感じてもそれを問う事が駄目とされる事も多くあるのだと思います。その瞬間にその人自身の本当に素直な自然の気持ちや心を潰してしまうという事が起きているのが現状ではないかと思います。特に子どもたちに対しては、人が本来持っている素直さを大事に持ち続けることが出来る為にも、私達が今まで以上に間違った刷り込みに気づいていくことを忘れてはいけないのだと感じます。

  2. コメント

    物事に対して斜に構えてしまう様な見方をする様になっていては、目の前にある環境の
    価値や恵まれているという事などにも気づく事が出来ないのですね。楽なことなどない、
    大変なことしかないのが当然であり、そこに何を言おうとしてもそれは自分が目を背け
    たい、逃げ出したいという言い訳を言おうとしているだけの様に思いました。大変な
    最中に在る恵みや大事な機会を踏みにじらない様にして本当に遣りたいことに向き合い
    希望に満ちた自分の遣い方をしていきたいと思います。

  3. コメント

    色々な環境の下子どもたちは生活をしている。
    その子どもたちを良い環境へと導いてあげたいと思う。
    学生の頃、養護施設へと実習に行ったことがあり、
    様々な理由で親と過ごせない子どもたちと2週間一緒に生活をした。
    比べるのはおかしいかもしれないが、自分は本当に恵まれた環境にいるのだと気付かされた。
    この思いは、普段の生活の中では気付くことができなく、貴重な経験をさせて頂いたと思う。
    保育園の子どもたちだけでなく、こういった養護施設の子どもたちも同じ子どもなので、
    どうにか救えたらと思うが自分の無能さがあり、実現できない。
    カグヤでの実践がいつの日か子どもたちを救えるのだと思い、深く実践していきたい。

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