自問自答と本気について

人が何かを行うとき、それが本気かどうかというものを確認することがある。

よく巷では本気といえば、その本気度が人それぞれ違うからと言われるけれどそれはあくまでその人がどれだけ深く自問自答しているかのことをいうだけで本気ということではない。

あまり自分で考えもせず、遣っている人は周囲から見ればあまり本気でやっているとは言わないし見える事もない。よくそういう人が注意されるのも、本気を出せという根性論で考える人もいるけれどそうではなく単に自問自答がまだ足りていないぞと言われているのである。

今までの一般的な学校教育を施されてきた人は、自分で考えるよりも先生の答案を探そうとする人が多い。先生が何か言えば、それの答えを言った人が褒められてきたし、先生が問題を出すのだから答えは先生が持っていることになります。

何か問題が起きれば本質的な人であるほど自問自答から入りますが、教育の刷り込みが深い人たちはそうではなく他問他答から探そうとするのです。

今、組織で起きている問題に自分で考えることができない人が多いというのは、その過去の教育の弊害があるからです。大事なことは、自分の頭で考える事、つまり自問自答して根本や根源、大本まで辿りつけば本気に出会うということを言うのです。

本気でなければ、何も実現しないのは自分が人生の主人公であるからです。
誰かに合わせて生きるような教育を受けてきましたが、本来はそうではなく自分に合わせて生きる事、つまりは自問自答することが人生ともいうのではないかとも私は思います。

そしてそれを学問というものです。

今の巷の学問は、実社会ではほとんど役に立ちません。

論語に、「子曰わく、古(いにしえ)の学者(がくしゃ)は己(おのれ)の為にし、今(いま)の学者は人(ひと)の為にす。」とありますが、つまり自問自答していることが学問でありそうではないものは学問ではないと喝破しているのです。

考えない人に自分がなってしまえば、それだけで自立する社会のお役に立つことができません。人が作業的動作的になる理由は、それは考えているようで考えていないことになってしまっています。なぜなら他問他問になっているからです。

作業的、動作的の反対は、本質的や根本的にとなりますがそれは自問自答かどうかによるのです。

実社会では答えなどない問いを求め続けることが求められます、なぜなら人が生きるということは、日々の生活を通した中で自分をより善く生きるということに他ならないからです。

これからも本気のままに、自分らしい人生を自問自答に楽しんでいきたいと思います。

  1. コメント

    答えがあることを前提にしていると、質問をすること、質問として挙がりそうなことを事前に考えておくことへの難しさを感じます。事前準備は想定外の事までも想定しておくところに、自問ということを感じます。人任せでは解決しない事は、周囲で起きる課題を見ていて感じます。本当は何なのかから考えることを、課題として取り組んでいきたいと思います。

  2. コメント

    まさにその刷り込みの渦中にいると感じています。答えを出しに行くことと、自分の身になるように取り組むことは違うのだと感じます。考え方として何となく理解している気でいますが、行動が伴っていない為、実際には何も掴むことが出来ていないので、まずは答えがあっているかいないかという事よりも、自分自身が成長し役に立てるようになるためにはどうしていけばよいのかと考えていくことを大事にしていきたいと思います。

  3. コメント

    私自身まだまだ刷り込みの渦中である事を感じます。今回のテーマもそうですが、自分の中で考えて何かを取り組んだりするのではなく、先ずは周りが持っている答えを知ろうとしたりそれを探ろうという事に力を入れていたのだと気づかされました。何故そうなるのかを考えた際に自分はゆとりや余裕が無い時に特にそうなってしまいます。しかしゆとりや余裕がなくなるのも自分の中で自問自答を行っていないからだと思います。流されるのではなく、自分で考え自分で動くという実践を行って行きたいと思います。

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