トップダウン

先日、ある園で相談を受けた。

「今までずっとトップダウンで進めてきてそれでそこそこうまくいった、今だってそれでマネジメントしているし、それは企業や組織の経営者には当然必要ではないか」ということを言われた。

このトップダウンという言葉には、勘違いされるいくつかの罠があるように私は思う。

相手のことをまったく考えずに自分の都合だけを押し付けるのは文字通りトップダウン、説明の必要もない。

しかし、あらゆる立場の人たちを一つの円の中に容れて深く考察し、長き先を見通し公の精神と正しい道徳行としての「今」の判断はトップダウンではなくそれはリーディング(導く力)だと思う。

しかし通常の経営者は、自分が特別な責任者の立場だということで勘違いし経営は自分都合で進めていいのだと思っている方がたくさんいる。

そして職員には、自分を棚に上げて一方的に素直でいなさいと押し付ける方がとても多い。

そもそもこの「素直さ」というのは、巷では「常識があり何も考えず目上の人の言うことや組織の管理者に黙って従う」のが素直さだと勘違いされているところがある。

しかし古典などでも定義されている本当の素直さとは、以前にもブログで書いたが「正しく自分で物事の意味を咀嚼して考えて様々な価値観に柔軟に対応できる人」のことをいうのだと私は思う。

人間が価値観に柔軟だから、自分なりに本質を捉えて臨機応変に相手の求めるものに変化することができるのだと思う。それを「素のあるがままで直(なお)く在る」=素直さというのだ。

日本では子どもの教育現場を洞察しているとそれに近い事例をよく見かける。

学校や家庭の教育には、すべてではないけれど大人側の「しつけ」や「キョウイク」などという分かりやすい言葉でそれは子どもだからやって当然だと、相手の立場を考えずに常識を押し付け管理側の目線でそれをやろうとする刷り込みがある。

しかし、一個人としての人権を尊重しない大人や管理者の理不尽な言いようを子どもや相手は見抜き、「なぜそれをやらないといけないのか?」を聞いてくるし、それを時間をかけて考えて間違いを正してくる。そしてちゃんと分かった人はそういう安易な不合理な大人の意見には決して従わない。まただからといってそういう人を安易に排除すれば、素直で優秀な良い人材は育っていくことはない。

別にしつけやキョウイクがいけないと言っているわけではない。

本当に自立できる優秀で良い人間を育てるのならば、まず一般的な刷り込みで安易に従わせるのではなく自他ともにじっくりと話し合う時間をもっとゆったりと取ってお互いに語り合い認めあって進めていくことの方が本質的で大事なのではないかということを言いたいだけ。

私がコンサルティングの相談を受ける園でいつも不思議だなと思うのは、「うちの職員は自分で考えないんですよ」とか、「うちの職員は無能な人が多くて」や、「うちの職員は自由とかルールとかなかなか分からないのですよ」とか言われるけれど、今までそういう安易に管理者に従うようなそういうマネジメントを長年自分がやってきたのだから当然そうなるのではないかと私は思う。

そして逆に、「うちの職員はよくやっている」や、「職員が有能でちゃんとやっていて任せている」からなどとも聞くけれど、よくよく伺ってみるとそれは園長がよく現場のことが分からないだけの「単なる放任」になっている場合が多い。

その証拠に、現場の職員は不安で仕方がなかったり、もしくは必死で頑なに見栄をはっていたりすることがある。それはトップがリーディングしているのではなく、現場と経営を分けて管理するための方法の一つとして使っている場合が多い。

そして、自分が職員の文句を言ってもそれは単に自分自身の在りようの状況を話しているだけなのだから、それを根本から改善しないと良くなることはない。たとえば自分自身で自律し自由とルールを意味付けし、自立した有能なリーダーになっていくことしかそれを変革することはできないのではないかと私は思う。

対話をするには上からではなく相手の立場になって一緒にモノゴトに向き合い受容し自立をするからできることは多い。上からの理不尽や不合理はどこかトップダウンの刷り込みと印象がある。

そうならないためにも、目に見えない本質的な理念を対話の中心に据え、相手のことをよくよく共感し、受容していけば自然と相手は自分で考えるようになるものだし育っていくものだ。

理念なき自分都合の自分勝手なトップダウンでは、これからの価値観の多様化した現場では対応していくことは難しい。

だからこそ、現場をファシリテーションするスタッフを育てていくことが大事なことだし、それを育てる側のリーディング力はこれからの生きる力の要になっていくのではないかとさえ私は思う。

そもそもマネジメントを通して人間を育てているのだから、バブルだのグローバリズムなどのスキル論や議論は一切関係がなく、人間が歩んだ軌跡をよく考察した古典や歴史に照らし「正しく人を育てる」ことに通じているのがマネジメントの本質であるべきで、これからの学校は時間もお金もそういうところに使わない組織は必ず衰退すると私は思う。

現状よく周りを見渡しても子どもたちを育てる現場のマネジメントも、見守るのではなくそういう一方的なトップダウンをやっているところがとても多い。大事な教育現場でいつまでも変わらずそういうマネジメントを続けていたら世界でユニークに活躍する有能な自立型人材と自己実現していく場も少なくなってくるかもしれないなと私は思う。

まずは、私自身が組織の長として実践の襟を正し、立派で本質的に素直な人を育てる環境になり業界の未来と、子どもたちの自立に協力できるようにこれからも真摯に努めていきたい。

  1. コメント

  2. コメント

    導く力と言うのは簡単な事ではないと思います。
    導く前に自分が向かいたい道を持ち、尚且つその道を信じているからこそ導けるのだと感じます。
    自分はまだまだトップの方の意識や考え方はありませんが、トップが道を示しそれに対してその道を共にしたいと思うのが働く側ではと思います。
    そして自分自身がそれを決めたのであれば上記にあるいわゆるトップダウンは無いのだと思います。
    トップに立つかその下で働くのか、どちらにしても自分がどうしたいのか?
    しっかりと持つことが大事だと思います。

  3. コメント

    理念なき経営の怖さを感じました。トップの理念がなければ、現場で働く人に
    とっては放任されたものであり、結果でしか話が出来ずに、結果を追い求める
    ことでしか貢献出来なくなってしまう社会になってしまうのではないかと
    思います。それは組織の中で起きている事もそうですが、クラスや自分に
    与えられた仕事など至るところに言えるのではないかと思います。
    トップの現場に対する方針と委ねて任せて積極的になるということの難しさを
    学ばせて頂きました。

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