情報リテラシー11

先日、ある園で情報リテラシーのコンサルティングを行った。

すべての人は多くの情報の中から自分にあったものを探し物事を選択・選別していく。

たとえば、それが知識や体験からのものであったり、動物的直観であったりと、その人たちの判断基準はその人が持つ感性や価値観に左右される。

そして、その内容の重厚でまたその判断基準は大きく左右する。一生涯影響を与えると思えることであれば、細部細心の注意を払い、本当にそれでいいのかなどを深く悩んだり迷ったり、さらに情報を探そうともする。

しかし、たとえばたいして深く考えていない場合の今日、明日の悩みや、今何を食べるかなど、影響があまり先々に見えてこないものはあまり深く悩むこともなく、見た目だけのものや、何となくだけで決めている場合がほとんどだと思う。

つまり情報というのは、その人がどのようにそれを思うかによって千差万別する。もちろん思想や哲学が成熟していたり、芸や道の追求や実践が長けていて自らを修めているような一流の人たちなどはどんな情報でもすべて見落とすこともないのだろうけれどふつうはそういうところまで考はしないので情報に受け身に関わることが多いのだろうと思う。

そういったようにふつう情報は、受け手側の感性によるのだから発信側が情報リテラシーを正しく理解して真の情報を取り扱っているのかどうかはお互いの幸せと目的達成のためにとても重要になる。

ある園では、親ウケ、子どもウケがいいからと園庭や玄関に派手な遊具や派手なキャラクターを用意して目立とうとするところがある。もちろん、会社も今どきは地味なものよりも派手でないとという看板のような感覚で販売しているところもたくさん増えているしそんなころは当たり前だと意に反さないところもたくさんある。

言葉巧みに子どものためと、いろいろなところでお互いに納得し合い、理屈をつけては、それぞれに物品を購入しているのだと思う。子どもが良いかどうかよりも人間としてみたときに、やっていることの本質として本当にそれが必要かどうかを考えてみるだけで刷り込みに気づけることもあるけれど、大人側が子どもを語る時、どうしても誤った情報理解になるのは不思議なほどだなといつも思う。

もちろん、今の時代は、何をやっているのか、何をやったかという成果主義が企業でも蔓延していて何かをやることばかりに目がいくような傾向もある。でも、たとえば自分のパートナーや命を預けるような仲間を選ぶとき、見た目の派手さやパッと見の印象だけで決断するかというと、ほとんどは関わりを通して長い時間をかけてお互いに誠意ある実践と日々の約束や行動をお互いに認め合い、信じ合い、互いの気もちを育てながらじっくりと決断していくようなものがほとんどだろう。

そう考えると、何かしらの園のポリシーの弛みない永続する理念の実践というこだわりを通して、何かしらのメッセージを外部へ発信し続けることが親に本当にこの園を選んでいいのかを投げかける真心の情報開示ということにならないだろうか。

本当に親のためならば、親の真の目的であるわが子を何よりも大事にするために、情報の見た目を良くすることでもないだろうし、浅いところの情報でひきつけることでもないと私は思う。

その園が考え抜いた子どものために何よりも守りたい大事なこだわりを一本立てて、それを全職員と園長が一丸となって実践し続けてその経過や内容により本物の情報を滲みだしていくものだと私は思う。

そういう実践を続けていると、情報は育ってくるし、醸成されてくる。
そういうものは、見た目には分からないけれど雰囲気やその場に入ることであっているかどうかを肌や心でより自然に実感できるようになるものだ。

人間は、必ず生きていく上で必要な情報の取捨選択する本能がある。

その本能は、本物に感動し、本物を手繰り寄せる。

場には、その理念の実践により余韻が残ると私は思っているからだ。

お互いが本当にマッチングするような一期一会の出会いを呼び寄せるのも情報を扱う側の心構えと心得ひとつ。

日々を怠けず、常に自ら正しい情報を扱い、ブレナイ実践を続けていくこと。

カグヤの代表としても、このブログもそうだけれど、日々、自らを省みて、モデルとなる実践を示し感謝とともに子どもたちと保護者、園に関わっていければと念じる。

  1. コメント

    お互いが幸せになるためにも情報の出し方や受け取り方がとても大事になるという事を実感しました。
    特に情報を出すほうは何のための情報を出すのかしっかりと考えていなければ、今の時代はその情報の表面的な部分だけで判断しがちですので相手を間違った方向へ導く事もあるのだと思います。
    逆に受けて側も出された情報がいかに正しく自分が求めているものなのか?
    表面的な部分だけで安易に判断するのではなくそれがいかに正しい情報なのかしっかりと見極める力がより必要になるのだという事を感じました。
    又人は本物の情報に触れる事が出来たときに大きく変わるのだと思います。
    私自身としても今は様々な形で情報というものに関わらせていただいていますが自分自身の実践をやはり大事にしてその中で感じた事等を残していけたらと思います。

  2. コメント

    人は常に自分の意志を情報として交換し合い、確かめ合っているのでしょう。
    何かを得た時には何かを返すこと、それは自分の実践で返していくものなのだとも
    思います。自己表現が下手であったとしても、自分がしっかりとブレない実践を
    遂行し、頂いたギフトをしっかりと自分の中に抱ける様にしていきたいと思います。

  3. コメント

    今の私は本当に正しい情報を正しく扱えているのだろうか。自問自答すると非常に危機感を覚えます。
    自分が体験し本質だと気付いたことが本当に正しいのだろうか。頭で理解したものが正しいのだろうか。色々とかんがえることは多いですが、今私がその中で大切にしているのは、正しいと言い切り、分かった気になって話さない、考えないこと。
    また、正しい情報を正しく伝えるためには、情報だけではなく、自分自身の至誠、思いが伴う必要があるのだと気をつけています。
    まだまだ、自分自身が実践し、気付いてきた物事が少なく、ま行動していても意識が足らずにこぼれ落としてしまっている事が多いですが、一つ一つ、自分のものとして、ぶれない情報の扱い方を身につけて生きたいと思います。

  4. コメント

    情報は常に発信者側の意図によるものでそれを受信者側がどう判断、解釈するか、モノゴトの事実的な本質を見抜いていけるかが情報化社会には必要な生きる力になるのだと思います。
    日ごろの報道から感じることですが、島国で単一民族だかでしょうか、報道に対しての顕著な偏りを感じてなりません。
    一つの出来事に対して一斉に同じ視点の同じ論調で伝えられ、受け手側もそれに同調する。
    欧米諸国では医文化、異民族で言葉も様々ですから当然、様々な考え方、生き方があるので日本のように偏ることはないのでモノゴトの本質を見る力があるのではないかと思っていますが、情報の偏りだけであればそんなに問題ではないのかもしれませんが、日本人が発信者側の意図によって作られた情報を何も考えずに正しいことだと受け売れ、同調するような日本にならなければと願っております。
    歴史も書く人の目線や切り口で全く違って見えますが、モノゴトの本質を見極められるように決めつけず、自分の中に両義性も持って「一体何なのか」から考えていきたいと思います。

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