現場実体験

色々と生きていると公私共に様々な出来事が起きる。

その起きた出来事が一つのことでも、客観的に起きたという事実と主観的に起きたという事実がある。その両方は、同じく起きているのだけれど後者の方は感情が入るので現実味を帯びた生生しいものだということになる。

人は教科書を読む際、感情を交えずにそれを見ると理性や知性により原理原則を知ることはできる。そしてそれを知らず知らずに教えている側はそれをさも分かってしまっているような気にもなっている場合もある。

聞いていると、次第によく分からなくなりきっとこうなのだろうと知識は増えていくけれど現実にそうなるまではその意味は分からないし気づくこともない。

たとえば、戦争というものでも先生はたくさんのことを教えるけれど生徒はそのことがよく分からない。体験してみてはじめてその悲惨さを知り学んでいく。

他でもそうだけど、ひとえに「人生学びが全てだしそれが生きる力だよ」といくら大人が力説したって、それが教科書に書いてあるように客観的に語るのと、「生きるために学んでいたらそれが人生なんだよ」と自分の人生から主観的に体験し気づいたことから語るのとでは明らかにその意味は同じ出来事でもまったく異なる。

そう考えると、本来、人はその両方からバランスよく学び、自らの体験や経験を受容し内省することで新しく自分が出来上がってくるというものだと思う。知っているのと、遣っているのとでは天と地ほどの本質の差がある。

よく実体験を疑似体験させることで気づかせようとするプログラムもあるけれど、本質的には身の周りに起きる出来事に対して、どれだけ正しく向き合っているかでその質量も現実の受け取り方も変わってくるのならばまずは身近なことを大切に生きていくことを感化していくことがもっとも価値のあるものではないかと私は思う。

みんな同じ量を同じ体験することはできない、しかし出来事を深く極めることにより同じところで共感し疑似体験することはできる。そしてそこまで深く掘り下げた本質を確信できれば後は、そのズレを知性や知識、共感や受容、魂の力などを使って掴み取って近づけていくのだろうとも思う。

そう考えると、子どもたちはどんな物事や出来事へも好奇心と探究心で関心を抱き、そこからすべてを学ぼうと、いや、生きようとしているように見ていると感じることができる。

日々、かんながらの道を歩んでいると、子どもには無限の感受性と、本質を捉える力も全て持ち合わせていることが観えてくるし、やはり人間というものはこんなに素晴らしい能力を授かっているのかと感じると不可能が遠ざかり偉大な自信と安心が訪れる。

しかしこれも現実として無機質な大人たちが社会を形成し教育により刷り込まれることでそれを感じる力を忘れ、わざわざご丁寧にその場や環境を意図的に用意してあげないと分からないとなると、こんなに悲しいことはないなとつくづくそれを感じる。

私はカグヤを通して保育現場で行っているものは、実践という名の「真実の体験」であり、それは子どものような心であること、つまりは素直なままでいることを実体験し続けることで、各種の刷り込みを取り除くことができ、様々なその人らしさや人間の本質を引き出していくようにと見守る環境を用意していくお手伝いをしている。

それはもちろん何かを教えようではなく、自然に引き出せるように、言い方をお変えれば不自然なことをしないようにしている。それは意図的にしないのではなく、無理にさせないとすることではなく、文字通り、あるがままの「自然」であるために様々な努力をすることを奨励し、その創意工夫をしていくという遣り方の入り口へ導くようにしている。

たとえば、保育現場では当然ながら今までで身につけた様々なすり込みがある。
そしてそれが様々な壁にもなっている。

それがなくなれば、保育者は自然に子ども達を見守れるようになる。

しかしそれが今できない最も大きな理由がそれぞれの思考の罠や環境の中にある。本人も気づいていないその刷り込みを取り除くためにも様々な気づきの機会や内省の機会、場や間や和などの空間と繋がりを通じてコンサルティングを用意し、自然に自分たちが元来持っていたものを引き出していくように受容肯定している。

現在、教育業界の人たち全般は何かを教えることが好きで教え込まれることが好きな人がとても多い。その中でいくら満足する結果を得られようとも、現場から言わせれば非現実であり非実体験であり、客観的にはうまくいくのだけれど、本質的にはうまくいくように見せただけということになることが多いのではないかと私は感じる。

これはきっと家庭教育と同じように、父母が理屈や理論ではなく自らの模範と姿勢、親子のキズナを大切にしながら自然に子ども感化する方が「よほど」自然なのだと思えるからでもある。

今、保育現場で起きていることは必ず大なり小なりその家庭の影響を受ける。
それをどう今の時代の環境にあわせて、正しく補い、支えあい、今までを捨てて変化していくかが保育者の専門性の一つだとも私は思う。

子どもに起きている危機を感じれば、今、私たちが本当に学ぶべきは生の人生そのものなのではないかと私は思う。

そしてそれは、どう「素直で生きる」かの道に繋がっていると私は確信する。

これからも研修やコンサルティングを通して、分かった気にならないように常に自らを省み、より子どもたちから真摯に学び私たち自身が常に刷り込みの殻を破れるように他者支援と援助を惜しみなく尽くしながら貢献し学んで生きたい。

常に起きている出来事の「現実」を実践により学び、そして正しく見据え、カグヤの理念の体現者としてまず私自身、これからも理念からブレずに子ども第一主義を積み重ねていきたい。

感謝

  1. コメント

    自分の子どものことを考えた時、食べ物を大切にしていない親は食べ物の大切さを知る環境を奪ってしまうことになると思い、野菜を一から作ることや、料理を一から手間をかけて作ることを始めたことを思い出します。子どもは元々自然に育ち、大人から教わらずしても大人たちが自然にやっている環境に居れば自然と分かることが出来る能力を持っているにも関わらず、大人はなんだか教えてあげるということを盾にして、自分自身がやらず、環境とならずしているということに自分自身が気づいた時、変わろうと決意しました。世の中の全てのことを体験し伝えることは難しいのかもしれませんが、自分のあるがままの人生の中で出来ることを体験せずに知識を得ることだけで終わらせることは、人生の豊かさを放棄してしまうように思います。身の回りに落ちている楽しそうな実践の種を自分から掴みに行き、育てていきたいと思います。

  2. コメント

    自分の学生時代を思い返しますと授業に割かれる大部分はテストで成績を修めるための教科書を記憶することが大事にされていたように思いますし、それが勉強だと先生からも親からもまた、周囲の人達もそれが勉強だと常識として認知されていたように感じます。
    成人になり、様々なものに興味を抱くようになり、自らの興味・関心から自らその価値や意味を学びを深めていくことの味わいや得る気付き、そして知ることの喜びには感動を覚えます。
     
    そう思うと学生当時の先生方のことを考えると、先生としては教育要領に沿った授業を構成することが教師としての職務であり、限られた授業時間の中での教科書をもとに、決められた範囲の
    ものを伝えるということが主になっていなのではと振り返ります。
    それも一つの大人から子どもへの押し付けだったり、刷り込みだったりするのだとも考えますが、
    子どもには正しい意味や価値を伝える大人の責任を改めて考えました。

  3. コメント

    教え手と受け手による何かを教え教えられる様な関係では子どもがおざなりに
    なってしまうことであり、本当はどうしたら子どものためになるのかを一緒に考え
    て実践につなげていくことが大事なのではないかと思います。
    何かを遣ることよりも自分の人生をかけてどの様な生き方をしていきたいのか、
    将来をどの様に生き切りたいのかということから考えていくことが必要ではないか
    と感じました。その中で一人ひとりがどの様に関わり合い、協力し合うのか。
    教わったからできるのではなく、やりたいと一人ひとりが思えることで繋がって
    いくという生を自分から創り出し、歩んでいかなくてはと思いました。それが
    子どものために為る様に、子どもに見ることのできる背中であれる様な人生を送り
    たいと思います。

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