初めの心

日々、仕事をしていると作業が中心になってくる人がたくさんいる。
そして作業は熟練しているけれど、仕事が出来ない人がたくさんいるから会社はとてもその評価に困ってしまうことがある。

しかし最終的には良い仕事が出来る人が評価され作業が評価されているわけではない。なぜなら仕事とは、仕えることであり、業を作ることではないからだ。

忙しくしている人はよくよくじっくりとその全体を観察していると、受身になりがちで余計なことばかりを作る人になっている場合が多い。

不思議な話だけれど、自分で作業を増やし続けて残業している場合もあれば、誰かが作ったことの処理に追われて残業する場合もある。そしておかしなことに、それをやることで満足感を得てしまい趣味か仕事か分からなくなる場合もある。すると孤立する。

本来は、皆が作業をやらずに会社の本来の目的、つまりは理念に基づき仕事をしていればきちんと仕事は時間通りに進むと私は思う。なぜなら、それが本当にやるべきことをきちんとやっているからということになるからだ。

料理でも芸術でも、本質を捉えて理念に基づけば物事は「シンプル」になる。仕事が円熟するのは、シンプルにしていく過程であって何かをやるためにやっているわけではない。生きている時間、たった一度しかないこの人生を如何に豊かに充実したものにするのか、それは共生や貢献などによる在り方そのものへの命そのものの使い方によるものだと思う。

だからこそよく作業が多く余裕がなくなる人はいつも何かやることが日々どんどん増えてたくさんありそれを坦々と必死に真面目に取り組んで疲れている。

しかし、よく見ると真面目さというのは何により真面目かで答えが変わる。
つまり作業に対して真面目なのか、仕事に対して真面目なのかでそのものの定義がまったく変わる。

例えば、作業側から見れば目の前のことを全部そつなくこなすことが真面目となる。しかし仕事の側から見れば、本当にやらないといけないことだけをできるように取り組むことが本当の真面目ということになる。

逆を言えば、仕事側では真面目であることは、作業では不真面目と思われるようなこともある。それは一見サボったとも思われる。なぜならやらない作業が沢山必要になることを知っているからであり、やらなくて良いものは極力やらないと言う風にやっていないからだ。そうやって時間をつくっておかなければ心を篭めて本当の意味で会社に、社会に、上司に仕えることができなくなるからだ。

どんな仕事も本来の仕事での作業は、何より余裕とゆとり、さらに丁寧さと柔軟性がいる。
作業をただひたすらに頑固に必死にやればいいというものではない。

しかし人がなぜついそうなってしまうのかというと、物事の本末が逆転していることに気づいていないからだと私は思う。一度、止まって考えてみるといい、きちんと一休みすることが苦手だからそうなるのだと思う。

仕事は、どんなものもいつも考え抜いていないと本質的な仕事はできない。
私は師から学んだ「本当は何なのか?」から考えることをすべてに優先している。

そうしていれば物事はいつも本末を誤らず取り組むという意味になる。

だからこそ、取り組む以上は仕事は途中からはしない。最初から、つまりはじめからやるために「本当は何なのか」を考え抜きながらいつも取り組むということにしている。

自分で気づき作業という刷り込みに持っていかれないための創意工夫をしないと主体性が鈍ってくるからいつも刷り込みを意識しないといけない。刷り込みにやられる特徴は、頭ばかりで心をあまり使わなくなってくるからそれを判断基準にするといい。

どういう人が刷り込まれやすいかと分析すると人間は賢過ぎるとつい人は頭でっかちに成りすぐに「計算・打算」してしまいそれに驕り、うまくいったと勘違いすると心をお座なりにする傾向がある。

しかし、逆に心を使う人は不器用だけれど「心を篭める・真心」で取り組むことで刷り込みにもっていかれない工夫がある。だから一見、愚鈍にみえるけれどきちんとやるべきことはすべてきちんとやっているという具合になる。

これは組織の長や経営者のほとんどが分かる道理だと思うけれど人は頭が良ければ誰でも替えがきくけれど、心が良い人はその人しかいないので替えがきかないことを知っている。

その人がいるから周りが幸せになり、その人がいるから会社が本当にやりたいことを実現することが出来るという道理がある。それこそ自分にしかできない仕事ができるようになるということだと私は思っている。

それに時間が多少かかっても心が良いと次第に正しく学び、本当の頭が良くなり、すべてが総合的に良くなる、つまり人間として社会の中で円熟していく。

だから頭が悪くても心根が良い人こそがもっとも長い目でみると安心して人が育つということになる。私達はいつも初心を忘れてはいけない、なぜなら万物の初心は、その心の初めから起きるからだ。

カグヤは道の途中である以上、はじまりをよく学び、歩み方に生き方を照らすような日々の仕事の実践を大事にしていきたいと思う。

日々、周りを見て反面教師とし気をつけていければと思う。

  1. コメント

    仕事を通じ、考え抜くこと、実践し続けることの難しさを実感しています。
    仕事を表面で受け取り、わかった気になることで仕事を作業で進めてしまい、本来の目的から逸れることで修正することに時間も労力も費やしてしまう。
    そんなときほど、仕事に対し視野が狭くなることでわかった気になって、自分で修正できると思い自分本位の動きで進めてしまい、悪循環に落ちいってしまいます。
    そうならないためにも自分の仕事という感覚を捨て、全て会社としての仕事、社会に対しての公的な仕事として自分の判断で仕事を進めることく、仕事を進める上での確認、進捗、経緯、結果、報告を開示していきたいと思います。
    仕事でも私生活でも同じことだと思いますが自分本位な考え、行動を改めていきたいと思います。

  2. コメント

    仕事とは、会社が何を求めているのかを理解せずには出来るものではないはずなのに、なぜかいつの間にか、一人勝手に「今まではこうだったから」「きっとこうだから」と自分の価値観で決めつけて、会社からもチームからも離れてしまうのだと思いました。善意でやっているから余計に恐ろしいと感じます。そうしているうちに、会社や理念と離れて、離れたものを取り戻そうと作業に追われ、大変になり、負の螺旋を歩んでしまうのだと思います。
    大切なのは、必死に作業をすることではなく、必死に理念から考え続け実践し続けること。作業のレベルを上げるのではなく、考える頭の世界を理念に合わせてどんどんと変えていけることなのではないかと感じます。改めて、自分自身の刷り込みの強さを感じるとともに、今まで持っていたものを捨てて、新たな実践を増やそうと思います。

  3. コメント

    目的を持って遣りたいと思ったことがいつの間にか優先順位が変わり、自分の都合に
    なってしまい、自分の欲求を満たすためだけのものになってしまう事があることに、
    作業を行うということの危うさがある様に思います。何をやるにも本当は何のために
    やっているのかということを忘れずに行う事、その実践と維持し続けるという意志の
    強さが求められている様に思います。余計な知識を持ってしまったが故に余計な意識
    がある様に思い、子どもの様に集中し続けることに学び、本当は何なのかということを
    維持出来る様にしていくことも今の自分の課題を乗り越えるためにも必要だと思い、
    実践してきたいと思います。

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