信じることは守ること

何かの価値や守りたい大事なものがあるから人は信じることをする。
そしてそれを自分が守るからこそ信じることができる。

今の時代は、仕事でもそうだけれど一般に雇用者と雇用主という関係で成り立っているところも多いけれど本来人と人の関係はそういうサラリーマンと言われるようなコストなどでは量れるものではない。

人と人とが働くと言うことはお互いに幸福になるためにあるもの。そしてお客様とは、私たちの存在価値そのものでありそのお客様からの信頼や信用の根幹であるその価値や評価を自分が下げないことがその組織の信じているものを自分がその一員として責任を持ち守っているということでもある。

しかし今、周囲を見回すとそういうことを誰か任せにし無責任になり、さらには自分自身の人生をも自分で決めないことによって誰かに守ってもらおうとする依存した人がとても増えているようにも思う。もしくは、自分が守るのではなく、自分を守ることが優先されているという自己都合で働いているような場合もある。

例えば、一般的にこれは誰も通る道だけれどその親元を離れ自分が立派に社会の一員となり両親に心配をかけないようになるためにも守ってもらおうとするのではなく自分で立とうと思うことが自立ということでもある。

しかし、いつまでも誰かに依存して甘えていようとする気持ちがあり自分で決めずに流されようとすることは自分で信じることをしないという行為ではないかとも思う。

社会に出ると、自分で就職活動をし自分が本当にやりたいこと、自分の求めていることをやれるところを自分が探しだしそこに自分が就職する。

自分が決めて納得した就職活動をした人は、自分が決めたのだから会社のせいにはせず、誰かのせいにはせず、自分が決めたことを自分が守り、そこから会社で大切にしていることや共感したことを誰よりも自分から徹底して守ることができる。

自分が決めずに納得していないのに会社に居る人は、自分が決めないのだからいつも何かあるのを会社のせいや誰かのせい、待遇のせいやましてはお客様のせいにまでして、自分が決めないことをいいことに、会社で大切にしていることも破り、自分勝手に独善的な判断をし誰かにやらされたことだけはやるという指示待ち人間になってしまう。

そしてこれが組織のチームワークそのものの問題にまで発展する。

例えば、何かしらの方針を打ち出し大切なものをやるために経営者が決断してもそこをともに見ようともせず、自分がどう見られているかや分かってもらえるか、認めてもらえるかだけに躍起になり、最後にはお客様までも一緒にみていこうとしなくなり、そのお客様からも自分がどう見えているかばかりを気にして仕事をしてしまっている人もいる。

よくよく考えると、お客様にご迷惑をかけないことが価値を守っていることでありさらに価値を伝えるならば自分が会社にもご迷惑をかけない存在になっていなければならない。

そしてそれは、すべてに「約束を絶対に守る」ところからはじまる。

人は、何を信じるかというのは守るかどうかを信じるのであると私は思う。

相手にあわせて守ったかどうかなどは神様ではないからすべてを観ることはできない、しかしその人自身が自分で決めたことを守ったかどうか、皆で決めたことを守ったかどうかは見ることも知ることもできる。

つまりは、そういう皆で決めたことを守ることが信じること、信頼しあう関係を創ることなのだと思う。

これを勘違いし、自分から破る人は最初から守る気がない人であり、自分から弱いとか甘いとか言うけれどそれは自分のことだけしか考えないから自分が守られることばかりを周囲に求め、自分が守ろうとする意志がないことを自分で証明していることになる。

こういう依存体質があれば、そのツケは周囲に周り迷惑をかけてしまう。

いつもいつも迷惑を他人にかけて生きてきた人は、そういう信頼を自分が壊して孤立していくことに気付いてはいない、だからこそなぜ自分がいつもこんな目にと被害妄想をかきたて愚痴や責任転嫁の人生になってしまうのではないか。

本当は、自分が自分を守るのではなく自分から決めて自分が守るという信じられるような実践を徹底することが周囲に迷惑をかけないでいられることだと気づくべきではないかと思う。

人は決して一人では生きてはいけない、だからこそ何か大変なときにはできないことは誰かに頼まなければ助け合わなければ生きられない。

だからこそ自分が迷惑をかけていると思う姿勢や、謙虚に何でもさせていただきますという実践がその信頼関係を築いていく基盤であるべきだと思う。

そしてそういう組織のリーダーは守るものがもしもリーダーが自分を守りたいとあれば、それは大いなる過ちであり、人を調和する役割として価値を理念を守るために一人ひとりのみんなの力を引き出していき借りていかないと大切なものを守ることはできない。

今は、園の経営改善などに関わるけれどそこに関わる人たち一人ひとりの自分が決めて自分が守るという信じる力が何よりも理念を立てるのに必要になる。

見守る保育を広げる以上、信じるということの本質を理解し、実践し、それを感化していくためにも自分たちがモデルを示していきたい。

信じる者がなぜ救われるのかの真実を悟り、自立するということの本当の意義を感じ尽くして社業に努めていきたい。

感謝

  1. コメント

    人は思ったことしか実現が出来ないのだという言葉を教えていただきました。想像することが出来なければ、実際に行うことも出来ないのだということだと考えています。そして、それは信じるということも同じだと感じます。信じるからこそ、そうなるのだということ。信じることがなければ荘はならないのは、想像したことや願ったこと、考えたことしか実現しないのだということに繋がるように思います。

  2. コメント

    人をコストで見るということで以前、大量生産を行う工場現場のコンサルティングの方のお話を
    お聞きしたことを思い出しましたが、生産に不必要な無駄な動きを無くし、一日の製造個数をあげて
    いくとのことでした。
    製造現場では必要な効率向上の取り組みだと思うと共に、人が機械のような視点で捉えられている
    ようにも感じました。
    人が働くということの定義の一つとして、自分は互いの自己実現(社会貢献)に共同的に働きかける
    ということを大切にしています。

  3. コメント

    自分の日々の言動も自分を優先した自己都合になっていることが多くあります。
    それは自我の中での仕事になってしまっていて、自我の中での自分自身の存在でしかなく、
    自分自身が公としての存在ではないのだと思います。
    だからこそ、いつも責任を取る場所が自分本意になってしまっているのだと思います。
    子どもから大人になるということは、たばこやお酒、車を運転することではなく、公としての
    関わりを持って貢献していくことだと思います。
    世の中にとってのカグヤとしての責任をどう果たしていけるのか、深め、体得し、実践していきたいと
    思います。

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