日々初心

仕事をしていきながら子ども第一主義の理念を掲げ、同じ思いを共有できる理念を持つ方々と子どもたちが幸せになれる社会を共に築き上げるということは世の中の刷り込みというものを取り除きつつ刷り込まれないということでもある。

理念を本質的に実践するには何のためにやるのかを理解していることであり、それはそのために自分をどうするかということを決めている使命がある。

理念を理解し自分の使命を自覚することで本当に自分にしか出来ないことが次第に分かってくる。

しかし自分の命を何処へと定め、そこに使っていくと言うのはとても難しい。よく周りを見ても人は本当の意味で自分がやりたいことを心底やろうとしている人は少ない。現在も、様々な方々との仕事の中でも日々の喧騒に優先順位をつけられず些事に囚われ、自分の本来やろうとしたことや何のためにやるべきかをお座なりにし、世界に一人の自分を一度きりのその人生を誰のためにどう活かせばもっとも自立し豊かになるのかを考え抜き勇気を持って自らを制限することは並大抵のことではない。

好き勝手にやっても真面目すぎても趣味になる。公私混同しないという本質は、全てが公になっている中に私が収まっているということであり、それは常に自分の命を正しく使えているかどうかによる。

例えば、理念を掲げていくとはっきりと自分が本当にやりたいことが分かってくる。しかし、それが分かっていてもぶれたり流されたりするのが人間でもある、どれだけ強烈な意思を維持できるかはその覚悟による。

特に理念のオーナーである発信者をどのように制限するかは、こちら側がどれだけ相手のことを深く正しく理解し本気で寄り添い、本質的にその人にしかできないことをやってもらうということで全体の調和が生きてくるとしなければならない。

つまりはここでの理念とはその人にしかできない社会的使命であり、それを正しく存分にやるためにその人その人が自らの使命とその役割を自覚させ、それぞれの立場、その立ち位置で自分にしかできないことにこだわるということの積み上げということになる。

他を本当に活かすには、何よりも自分を活かす必要があるのだ。

それをやらないことは無責任無自覚であり、それは単に理念よりも使命よりも自分の枠内での単なるエゴの塊である価値観を優先し、偏りマジメに何かの業務ばかりをあれもこれもと増やし没頭していくと周囲の使命までを阻害していくことになる。

そしてそういう時、その本人は自分の本当の使命を自覚することもなくそして理念に対して責任を取ろうとも思っていない。そういうことを一人でもすれば、理念を掲げた組織はまったく為りたたなくなる。

本当にやりたいのかを決心させ、本当に自分が何のために此処にいるのかを自覚させることによる。

毎回そういうことをしていると、その都度周囲に迷惑がかかる。影響力が在る人であればあるほどそういうことは自分で自重し慎む必要が在る。だからこそ何よりも意識していくことは、刷り込まれないために「初心」や「原点」を決して忘れず、何のためにやるのか、そして本当に自分にしかできないことは何なのかを考え抜き行動し気付くということを繰り返し正しく実践することであると私は思う。

これを私たちの会社でいえば、子ども第一主義とは子どもを丸ごと受容し、子どもを丸ごと信じて、子どものために何ができるかを真剣に考えることでもある。

当然、それをやるために集まってきたのだからそれをやることに専念し、それ以外の仕事はそうでない人や会社に頼むのがいい。つまり自分でなくてもできるものは信用できる人に任せ、自分にしかできないものにこそ真摯に取り組むことが会社のミッションでもある。それが他を活かし全体との調和を生む。

そういうことができるように何よりも理念に徹底的にこだわり、周囲と関わり合い、そういうことがやり続けられるように刷り込まれない環境を整えていくものもまた大切な要素であると現場から感じる。

子どもたちのことを同じく思えば、子どもたちが本当にやりたいことができるようにそういう関係性と環境を築くことも見守る保育の一つであると思う。

子どもたち皆がそれぞれに自分の使命を理解し自治を行い、世の中に正しく自分を使っていけばその無二の存在価値を実感できることになる。そして幸せを感じ繋がり合う素晴らしい社会ができあがってくるのだと思う。

まずはカグヤは、その体現する会社として私自身自らを自覚するために日々初心を大事に理念に専念し、子ども達のモデルになるように努めていきたい。

何よりもそれをすることを使命と自覚し、常に自らを慎み歩んでいきたい。

  1. コメント

  2. コメント

    経営者の方々と商談をさせていただくと出逢いの喜びと同時に反対の感情を何時も思うことがあります。それは、怖さです。自分自身の発言、考えをお伝えする時に、私心が在ってはそれは嘘に成ると思っています。また、私心があると責任を背負うことが難しくなるように思います。公の心で一体何のためにという原点である子ども主体の心を忘れずにいるからこそ、仕事が出来るのだと思います。
    この、怖さを忘れた時が危険な時だと思いますので、大切に内包していきたいと思います。

  3. コメント

    これまでカグヤの理念である「子ども第一主義」に向き合い、取り組んできましたが、この理念の難しさ、奥深さ、素晴らしさを実感しています。
    以前、禅の教えで悟りを開き、生きることとはどのような境地かという問いに、生きながらに生きることを辞めることと説かれたことを思い出しますが、人は生きているだけで自我を生み、私利私欲の中でモノゴトを判断し、生きる苦しみを背負って生きる。
    生きることを辞め、生かされていることを受けれることで、生きるための苦悩から解放されるのではと思います。
    モノ言わぬ子どもの立場に立てるということは自分への執着があってはできないことだと
    思います。
    カグヤの「子ども第一主義」の実践で大人社会を共生の豊かが実感できる社会へと感化できればと
    思います。

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