勧善懲悪の理法

昔から勧善懲悪の考え方というものがあります。

二宮尊徳の報徳仕法もそうですが、他にも孔子や仏陀も様々な聖人がその理法を説いています。如何に敵を持って敵を制すか、水を持って水を制すか、己に打ち克っていくための仕法を生み出しているのです。

人間というものは、頭があります。これは頭でっかちの方の頭のことで、頭は現実に起きることを起きていないうちに考えてどうにかしようか、こうにかしようかと走り回るものです。それと同時に心というものがあります。これは、真心からこうしてあげたいとかこうしようとか具体的な行動により実践していこうとするものです。

これらは昔から学ぶ方法として、王陽明の「知行合一」などでも語られ、知ることと行うことを一致させていくこと、一体の中で行うことこそが学問であることですでに説かれています。

とかく現代人は、起きている現実のことよりも先回りして知識を得るあまり行動の量がついてこない傾向があります。学校でも先に教えられてばかりいると、体験するよりも先に教えてもらったことで分かった気になってしまうと本当に学ぶ機会を逃してしまうものです。

今、来ているものを全て受け取るということは全てを本当に学びにしているかというその心がけが問われてきます。自問自答という言葉も、本来は今というものへの正対の如何によるものですから常に今を大切に心を遣った後に頭を使うように心がけたいものです。

話を戻せば、人は必ずその中に自我や私ともいう欲が存在しています。その欲をどのように制するのかに二宮尊徳は夜話でこう語ります。 「世の中の人はだれでも、聖人というのは無欲だと思っている。しかし実際のところ、聖人は大欲なんだよ。もっともその大は『正大』ということだ。賢人の欲がこれに次いで大きく、君子がこれに次ぐ。しかし、凡人の欲は、小欲のなかでもっとも小さな近欲にすぎんのだよ。学問はこの小欲を正大な欲に導く方法なのさ。 では大欲とは何かといえば、万人の衣食住を充足し、大きな幸福をもたらそうと望むことだ」と。

欲を否定して抑圧するのではなく、その欲によってその欲を制御するという考え方です。つまり私に言わせれば、その欲はやる気にもなり情熱そのものであるのだからそれ以上のことを優先していけばいいというものです。

私が行う理念構築は、二宮尊徳の報徳仕法に習って産み出したものです。これは等しく、自分のことで困窮する時こそ、より理念の方を確かに行うことで自らを常に正大にしていこうとする思想なのです。

人は、大変な時こそ、困窮するときこそ、勤めて理念を行うことではじめて私心から離れ己に克つことができるものです。理念とは、形式的なものではなく道そのものであろうと私には思えます。

礼記に「道(みち)を以(もっ)て欲を制すれば則(すなわ)ち楽しみて乱れず」とあります。

「道が観えるか?」常にその問いは、理念を行っている最中にこそ存在するものです。人はみなこの理念道を尊べはそこに真我との出会いもまたあるように思います。

ちょうど、もう一度今の仕事を整理している中で善悪一体、自他一如、その大自然の勧善懲悪の理法を直観しています。

 

  1. コメント

    周りがバタバタし始めて気付いているにもかかわらず自分も同じように捉われると、気を配る以上に配られこれまでと変わらない方に居続けようとしていることに気づきました。そう思った時こそ行動なのだと振り返ると思います。思うよりも一つの行動に重きをおき動きたいと思います。

  2. コメント

    「教えてしまうと、その人の学ぶ機会を奪ってしまう」ということを、よく認識しておく必要がありそうです。結局は、「教える満足」と「育てる焦り」が低次元の私欲なのかもしれません。高次元の欲をもって低次元の欲を制す。私欲に優先する「道」を優先して生きているか、を日々確認し直したいと思います。

  3. コメント

    いつも理念やお天道様など大きな所から自分の欲を見つめると、欲についている小さな我が洗い流され、良いものになるような気がします。
    良いものにならない時はやめてしまいますが、大抵は良いものに変換出来、その後は導かれるようにやるべき道と欲をみたさせてくれる歩み方を教えて頂いていると感じます。あとは、天のタイミングに抗わず行動して行きたいと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です