医は仁術

私達の古来の国造りに於いて最も大切にされてきたのが医と農です。

そしてこれは必ず両輪として天地の和を施すものであろうと私は思います。

江戸時代の学者、貝原益軒は「養生訓」で医とは何かを表現しています。そこには「医は仁術なり。仁愛の心を本とし、人を救ふを以て志とすべし」。医術とは、単に人の体の治療をするだけではない。そこに人徳を施す術である、という意味で用いています。

そして「医とならば、君子医となるべし。小人医となるべからず。君子医は、人のためにす。
人を救ふに、志専一なるなり。小人医は、わが為にす。わが身の利養のみ志し、人をすくふに、志専ならず。」ともあります。これは医となるなら君子のような医となれ、小人のような医にはなってはならない。君子の医は、徳をもって人に報いる志に貫かれる。小人の医は自分のことのためだけに用いられて志にはならないという意味でしょう。

医とは何かとここではっきりと定義していますが、医とは人を直すものです。

私はコンサルティングの仕事をしていますが、本来の直すというものはこの医に通じているものがあるように思います。そしてこれもまたかんながらの道の一つであるのです。

何を以って徳と言うかといえば、本質的に直すことができるという意味です。その人が本当に遣りたいと願っていることを実現することや、本来のあるべき姿、根源や根本に帰すということもまた徳を活かした医になるように私には思えます。

私が最も憧れるのは、それを心だけではなく具体的な技術や仕組みも修得し、より現場の人達の御役に立てることです。

今の時代であれば、身体を直す方も大切ですが脳を直したり、本能を正したりする方に医術が必要ではないかと感じています。

刷り込みを取り除くことも、本来の自然に立ち返り生活を改善することもまたそこに私なりの医への強い憧れと希望があるのです。

私が取り組む仕事は常にその本質から離れることはありません。今後も技術を磨き、より具体的に救済を求めて追及していきたいと思います。

  1. コメント

    私は、病にも「メッセージが含まれている」と思っています。もちろん、ウィルスや細菌等による病気や生活習慣による病気もあるでしょう。しかし、同時に、その病を通して気づかないといけないこと、学ばないといけないことがあるように感じます。したがって、治療の過程において関わる医者は、いわゆる人生の師のような存在でもあることが望ましいと考えます。私も、具体的な技術を持ち、身体だけでなく心や考え方まで救済できる医者のような存在に一歩でも近づきたいと思っています。

  2. コメント

    父は数年前に転倒して脚を痛めボルトを入れる手術を行いました。以前のように軽快に歩くことは出来なくなりましたが、塞翁が馬で手術の際に軽度の糖尿病であることが発覚、その日から人が変わったように食生活を改善し、今は糖尿病を完全に克服するに至りました。母や孫のために健康で長生きしてあげたいという想いから、薬が不要になった今でもカロリー制限を継続している父の姿を見ていると、人は自分の力で自分を正していくことが出来るのだと改めて感じ、父への尊敬の念が湧きました。私も人のため子どもたちのため、まずは自分で自分の心を正していくことから精進していきたいと思います。

  3. コメント

    「医」の中に自分の名前の「矢」が隠れていたことに気が付き、急に親近感が湧きました。
    「医者」というと権威の象徴のように感じ、国造りでもっとも大切にされた一つであるとなおそのことを感じます。「かくしがまえ」+「矢」でつくられる「医」という意味ももともとどうであったかを知ることで、見慣れている漢字であっても新に気づきを頂きました。少しでも本来あった姿に近づいていけるよう精進していきたいと思います。

  4. コメント

    業種という、社会が作り上げた呼び名の職業と、
    そもそもその職業が担っている本質とが、離れている時代なのだと感じます。なぜ働くのか、なぜ学ぶのか、なぜ社会があるのか、ひとつひとつ、自分自身がもつ思い込みを理念や、自然、諸先輩方の生き方を学び、実践する中で取り除きたいです。もっと、生き方を突き詰めてお役に立ちたい、そう感じています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です