古人の遺志

今は文字によって様々なものが残されています。

その文書や文学を通して研究し、それを論文にして発表し学識の中で真理を共有していこうとしています。文書や文学というものの行間には確かにその本質を垣間見え、とても勉強になるのは事実です。

また多くの人達に学びに入るキッカケもまたその文書がある御蔭で入りやすいのかもしれません。しかしそこでもう一つ別の側面を考えていると、文書や文学があるからこそ分からなくなっていくものがあろうとも思います。

本来は、文書や文学というものは最初に現場で何かを志た人たちの実践や事実がありそれを何らかの形で残そうとした道具であるというものです。その道具というものは、思想をカタチにしたものでそれは口伝や石像、その他の仕組みで残そうとした試みということです。

その本来の求めたものが何であったかは文書や文学では分からないはずなのです。

松尾芭蕉に「古人の跡を求めず、古人の求めしところを求めよ」があります。

これは弘法大師空海の遺した文から松尾芭蕉が引用したようですが、この言葉であってもこれは単に文書文学ではなくその実践現場の人達の思想の根幹を求めるのは自分の実践現場という意味になるのでしょう。

いくら私もここで文書を書き綴ったとしてもこれは決して分かるものではないはずなのです。どの文書や文学を嗜んでも、その求めたところにむかって自分の人生そのもので向き合って求め行動して噛み締めていくことには適わないのです。

本来の学問というものは、その人の言うことを学のではなくその人が学ぶものを共に学ぶというものが実学なのでしょう。

尊敬する古人たち、尊敬してやまない偉人たちの士魂を受け継ぎこの今を遣り切っていきたいと思います。

  1. コメント

    松陰先生は、学問への態度として「聖賢におもねらぬことが肝要である」と言われましたが、あくまで主体的判断と責任をもって学び、自らの糧にする必要があります。学んだだけでわかった気になって、受け売りを自分の悟りのように錯覚することだけは避けないといけません。そのためには、その人の求めた道や真理の探究を、自己の人生のなかに求め疑似体験することが大事でしょう。そういう疑似体験を通した学びを重ねていきたいものです。

  2. コメント

    「前人木を植えて後人涼を得」という諺のように、故人が形として遺してくれたものそれ自体はとても素晴らしいものなのだと思います。しかし受け取る側が未熟で形にばかり囚われていると深くを求めなくなるためかえって害になるのかもしれません。全ては学ぶ側の姿勢により活きるか死ぬかが決まるのなら、まず学び始めにすべきことは本質を掴もうとする姿勢を整えることなのだと最近強く実感しています。

  3. コメント

    本を読んでいて似たような体験をしているとき、読みながら共体験をしながら読み進められます。体験をしたことがないことでも聴こえのいい言葉は知識として頭で理解してしまいがちですが、最近はそういった時気を付けるようにしています。自分が体験したことは堂々と話せますが、覚えたことは説明にしかならず話した後自分自身が何だか後悔するからです。実践という言葉をとくに噛みしめています。

  4. コメント

    目標数字の見方も、数字を見るのではなく、数字が目指している目的をみることであったり、学びも教えて頂く方の見ているものを見ることが大切なのだというお言葉に、改めて本当にそうだなぁ、と感じます。いつも、目線は手段ではなく目的にむけて歩みたいと思います。

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