一生一省~ライフワーク~

先日、ある園長先生とのふり返りの中で生き方と働き方について話をしました。その中で、ライフかワークかではなく、ライフライフライフだということや、ライフワークそのものという話をして盛り上がりました。

私はこれらのライフもワークも分けない人、いつも遣り切っている人だとよく身近な人たちから評価されていますが、これが何かということを一度深めてみることにします。

よく世間では、仕事とプライベートという言い方で人生を分けています。働いているときと休日も分けていて、週末はぐっすり寝て休み、平日は一生懸命に仕事をするといような感じになっています。他にも、私的なものと公的なものという分け方や自分事と他人事という分け方などこれは自分の人生で、あれはみんなと合せた人生という分け方をしたりもします。

言い換えれば、自分の都合で何かを分けているという感覚で仕分けるのでしょう。

これを生き方の働き方の一致、つまりはライフワークになっているとどうなのかといえば平日も休日もまずありませんし、私的も公的もなく、自他も一体になっているし、全て丸ごと自分の人生という生きざまになっているということになります。

つまりは、ライフライフライフであり人生というものそのものに真剣になっているという状態なのでしょう。真摯に生きるということは、自分の中の分別知を持たないということによるのだろうと思います。

自分の人生の目的に対してどれだけ真摯に今を生き切るか、真理を探究するか、自らを修養するか、自学自習を研磨していくかということを実践していくのです。

実践と実験と実証を繰り返す人生においては、ライフもワークもないということでしょう。

自らが取り組んでいる人生の課題、言い換えれば目的に対してどれだけ真剣に生き切るか、全てのご縁を活かそうとする人生の姿勢がブレナイということがライフワークになっているということかもしれません。

時間というものは、あの川の瀬音に聴こえるように猛スピードで流れていくものです。二度と戻ってこない今だからこそ、少しも無駄にしたくないという心が全てを遣り切るという行動につながっているのかもしれません。

死を想い、生を活き、時を信じ、人を愛し、自然一体の道にいることが一生一省なのかもしれません。

この今もいのちの躍動を感じつつ、かんながらの道を楽しんで往きたいと思います。

  1. コメント

    「ひとつの態度で生きる」というのは、自分の人生の目的のために、ひたすらその道を歩んでいるということでしょう。誘惑に負け、欲に振り回されている余裕があること自体が、自分の真の道が定まっていないことを現わしています。命が懸っていないなら、「命を懸けるもの」を見直さなくてはなりません。

  2. コメント

    今日くらいいいかと妥協している時点で、分けていたと感じています。分けないほど納得するのには自分との対話と意思、仲間が必要だと思います。一人では誘惑に負けそうになりますが、他の人の頑張りは勇気になります。今日の自分が誰かのお役に立てるよう、一日を過ごしていきたいと思います。

  3. コメント

    いつもいつもやっていることの現象を見ては、自分の目指す生き方と違うことをしていることに気付き、自分を嫌になり、苦しんでいた時、ある親友の年賀状に面白い言葉が書いてありました。”「それもいいじゃないか」はおもしろい人生のスローガン”と書かれていたそれを見て、「出来ているかが問題ではない、受け入れて目指せるかが大事なんだ」と心に沁みる一枚を貰ったことが在りました。生き方と働き方が離れていることが問題ではなく、生き方と働き方を一致させると決めて行動し続けるときめているかどうかが問題なのだと気付いた瞬間でした。誰もが、その過程を越えて当たり前の世界に入って行くのかもしれないと思うと、この瞬間瞬間も、捨てたものではなく、移り変わりの甘酸っぱい青春のような時期かもしれません。どんな瞬間も、志せば味わい深く、その味わいを受け取らせていただける真摯さと素直さをいつも大事にしたいと思います。

  4. コメント

    「学問の大禁忌は作輟なり」と言いますが、常に行おう続けようと考えるよりも、分けずにそのものと一体となることの方が近いように思えます。頭で考えているようではまだまだ思いが足りないのかもしれません。目的を鮮明にして一体となる生き方を目指したいと思います。

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