大和の姿

これからの社会を考えていくとき、日本人として何を優先して生きていくのかということを考えることがある。

今までがどう生きたのか、そしてどう生きるのかを思うとき、私たちは先祖の創始理念である天照大御神の遺志から思うことを私は初心であると定義している。

以前、ブログでも書いたけれど三種の神器というものがある。鏡と剣と勾玉であるけれどこれは心の在り方を示しているものであり、正直と勇気、思いやりの3つを実践することを私たちへ伝えたものだと私は思っている。

そして、私たち日本人は心に太陽を抱き、明るく素直に正直に御蔭様で生きていこうと清貧であろうとも錦を掲げ皆で協力し助け合ってやってきた。外国との競争の中で相手の文化を受け容れることで今のように形上は裕福になり、農耕型から狩猟型へと切り替えてきたけれど根本的には島国で育つ私たちは穏やかで静かな民族であるのであろうとも私は思う。

助け合いの中から正しい責任感を身に着け、正直であることから人としての道を学んできた。そしてそこから貧しい中でも清く正しく健やかに、幸福に暮らしてきた私たちの先祖、大和の姿が見えてきます。

私はこの大和の姿であればそれでもう充分幸せではないかと思っている。

神道の心も同じく、かの論語で孔子はこう言っています。

『子曰く、「たとえ粗食をし水を飲み、肘を曲げてこれを枕とす。楽しみ亦其の中に在り。不義にして富み且つ貴きは、我に於いて浮雲の如し」(述而)』

私の意訳になるけれど孔子はこういいます。「もしも質素な食事をし、水だけを飲んで暮らし、肘を枕替わりにして寝るというような生活を送る。しかし、私は実は真の楽しい生活とはそういう倹約清貧の境地にこそあるものだと思っているのだ。人としてのどうあるべきかというその人としての筋や道義から外れたことをしてまで、お金を儲け名誉を得て豊かになってしまえばそれは私にとってはまるで浮雲のようにはかないものであるから必要ではない。」

当然、中庸を実践する孔子なのだから貧しいとか裕福とかの比較の場所で語っているわけではない。絶対的な境地に於いて本当の幸福とはどういうことかということに応えているのであろうと私は解釈している。

このままでは経済力が衰えて日本は裕福ではなくなるなどと言う人たちがいて、貧困国になってしまうなどと語っている有識者という人もいる。おかしなことで、何をもって貧しいと定義しているのであろうか、物質的な貧富はただの浮雲であるのに私たちの将来の国の姿とは本当にそういうものから考える事であろうか。

世界が観ている日本とは、世界が期待する日本の姿とは、私は本来の大和の姿を保育し実践し世界の模範になるような正直と勇気、そして思いやりを誇りとその本質的な自由を示すことであるのではないかと思っている。

それを国民が一体となって行うことこそ、私たちの国の本来のあるべき姿なのであろうとも思う。特に今の時代は、それをやることが世界をチェンジするリーダーとしての国の姿にならないだろうか?

大義を掲げられる民族である私たちの誇りは大和の姿を見つめるところから観えてくると思います。

今の日本の社会では身近なことから遠くのことまで人間の不義に対して怒ることや憤ることは正しいことだと私は思います。それを一部の人は極端だとか、潔癖すぎるとか、宗教っぽいと言われることがあるかもしれません。しかし納いかない世の中だからこそ、自分がどうありたいかを気づけるのかもしれませんしだからこそ同じように仁義に生きた孔子も心中は常に複雑だったのかもしれません。

仏陀にせよ、キリストにせよ、ガンジーにせよ、二宮尊徳にせよ、聖人と呼ばれる方が示したものはすべて人が自然に生きるとはどういうことかというシンプルなことを究明し示した模範の人々であると思います。

こういう時こそ、子どもたちに本当の自分の先祖が今まで大切に築き上げてきた国の姿を伝承し自らが示していくことだと思います。

誇り高き民族は、素直にあるがままをきちんと受け容れ、どんな逆境でもそれを力強く勇気と正義で乗り越え、思いやりや慈悲の心で優しく包むものであると思います。

どうか私たちは大和の姿、国家を育てているという自覚を持ちましょう。

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