自己犠牲の心と祈り

何かの出来事が起きるときその心中はなかなか穏やかにならない。特に先が見えないような時や、色々と予断を許さない状況の時は固唾を飲んで見守るような心境でもある。

特に有事の時は、大変な思いをしている人たちのことを思えばより心配になり無事でいてほしいと願うもの。子どもたちの仕事をすればするほどに、未来に残そうとしているものがどのようなものかを考えれば本当に遣るべきことは山のようにある。

人は自分の保身を思えば視野が狭まり、人々のためにと思えば視野が広がる。

仕事も同じくして、自分の責任云々ばかりを思えば視野が狭くなり、会社やお客様のためにと思えば視野が広くなる。

自分というものは、周囲や偉大な眼にはみえないけれど確かにある存在から見守られていると感じるとき人は自由になる。しかし、人は人を信じなくなると周囲を信じず、偉大な存在も感じることができず見守られている感じがなくなり不自由になる、それを自己保身ともいう。

人は自分を守る時よりも、大切なものを守ろうとするとき真の勇気が湧き上がってくるもの。自分のことよりも相手のためにや、自分のことよりも皆のためにと思えば思うほどに自分の力は周囲によってより活かされるという真理も働くであろうとも思う。

感謝や有難うや、御蔭様というものもそういう自己犠牲の心より生まれていくものでもある。そういう体験を自らで積まなければ、そういう自己犠牲の人の気持ちはわかるはずもない。

皆大切なもののために、自分の命を懸ける。それが自分の命が活かされているという実感とともに必要とされることの真の歓びを知るのであろうとも思う。

しかし、世間では自分があまりにも安全で無難なところにいればそういう人たちが自分たちのためにと陰ながら真摯にがんばってくれていることを感じなくなることがもっとも人が心を亡くしていることではないかとも私は思う。

誰一人、事故や犠牲により亡くならないでほしい、どうか無事でいてほしい。
そう切に願う中に、自分の中にも確かにある自己犠牲の心を誇りに思う。
そういう人たちのために、自らの心を祈るのである。

今の時代は、自分のことばかりを考える人ばかりになった。特に間違った個人主義を教育や社会構造により創られ、一番楽な人な方法で集団を管理するやり方が蔓延し、自分で考えることもしなくなり、責任の持つ素晴らしい意義や使命を感じることの価値もわからなくなっている人もいる。

こういう時こそ、平時以上に心を澄まし、心を穏やかに祈る気持ちを優先し、自らを正すことをしていくことが何よりも大切なことだと思う。

それは綺麗ごとを言っているのではなく、一人一人がそうしていかなければ世の中の繋がりの中で周囲を易えていくことができないからだ。自分を易得ることができない人に、他人を易えることはできない。自分を正しくできない人に、人を正しくさせることはできない。

周囲の偏見や周囲の雑念に振り回されないような正しい自分を持ち、人々を平等に公平に思う種を育て、平和な社会の実をつける。

こういう時こそ、悠久の自然に学び、身を慎み修めていきたい。

もしも全てを失っても、まだ子どもと未来が残っているのだ。
あるものを探して、どうあるべきかを正していきたい。

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