兼愛

人は鏡という言葉がある。

自分のことを知るには、相手のことを知ればよく、相手の心を観れば、自分の心も観えるというふうに常に相手の中にあるものを通して自分の正確な姿を掴んでいくことができるのであろうとも思う。

特に親子については自分と同じものを持っていて言葉一つをとってもあまりにも似すぎていて自分というものをより深く見つめることができる。似すぎているからこそ嫌気もあり、同質であるからこそ愛するものもある、親子の関係とはとても不思議であると思う。

しかし、親子他人問わず自分が放つ言葉は必ず巡り巡って自分へと戻ってくるものだからその覚悟で語っているかというとそこまで重々しく慎重に使っている人は多くはない。

すでに言葉が口から出てしまえば、鏡である相手を通じて必ずそれは自らで気づき猛省する日もくるのであろうとも思う。傷つければ傷つき、癒せば癒される、循環する中で私たちは人と人の間で生きている。

中国の墨子に下記がある。

「君子は水に鏡せずして人に鏡す。
 水に鏡すれば面の容を見る。
 人に鏡すれば則ち吉と凶とを知る。 」

これは意訳になるけれど、「君子は水を鏡にしようとはしない、人間を鏡にしている。もしも水を鏡にすれば表面上の全容は見ることができる。人間を鏡にすれば今後のすべての吉凶がはっきりとわかってくる。」という意味で反省するときにはどういうものが正しい反省であるのかと教えてくれる。

つい、何か自分がそうではないと思いたい部分や自分の嫌な部分などはその瞬間では気づかず自分が放った言葉で自分の相手への厳しい態度や感情の波などを後で振り返ると猛省することもある。

感情をコントロールできないでいると、やってしまったや、失敗したと思っても後の祭りであり手遅れであることが多い。当然、善いことであれば相手のためを思ったものであればいいけれど、そうではなく悪いことであれば相手のことを思いやらなかったのであればよくないことになる。

相手を観るのに自分だと思えるか、自分と付き合うように相手と付き合うことができるのか、人は自分への信頼の度合いが相手への信頼の度合いであり、自分との関わりの深さが相手との関わりの深さになる。

常にこの世は、繋がりの中に存在し、それは自他を分けない一体となって存在するものであると定義すれば地球上のすべての生命は分け隔てないものであるのではないかとも理解できる。

この墨子に、「兼愛無私」という思想があり万物全てに平等に愛することを説いている。自他の区別をつけず、等しく平らに人を愛するというのは自他というものが一体となってはじめてできるものであろうとも思う。

私はどうしても偏見を持ち、平等に人を感じることができなくなるときがある。子どもたちのように、もっと自然に相手のことを自分のことのように感じるものを思い返していきたい。

変に比べられ大人になったことを今さらどうこういうのではなく、元々の姿で在った方が楽に生きられると感得し、自然体のままで人を平等に愛せるような実践を積みあげていきたい。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <s> <strike> <strong>