心の本体~優しさ~

人は生きていれば心が深く傷つくことがあります。

自分の存在を認めてくれる社會の中では、一人ではないと思えますが自分の存在を認めない社會の中では一人ぼっちになったと実感するものです。

自然界では、一人ぼっちになることはありません。自然は、光、水、空気、様々な植物動物昆虫たち微生物といった生きものが循環し有機的につながっています。そういうご縁の中に御互いが活かし合って存在しています。

しかし人間界では、意図的に仲間にしたり排除したりと狭い世界の中でいつまでも争いは絶えません。人間が社會を創る動物だからこそ、その社會をどのようにするのかは人間の思想、生き方によるのです。

人は傷つくのは、優しい心を持っているからです。優しさというのは、共感のことで他人を自分のように思える心があるということです。もし自分がこの人だったらと考える力があるから、他人に優しくできるのです。

論語に「己の欲せざるところは、人に施すことなかれ」とあります。

これも「仁=思いやり」を基本にした考え方であり、人間は常に自分がしてほしくないことは他人にはしてはいけない。言い換えれば、自分がしてほしいことを他人に施してあげるといいということです。

そしてそのためには、自分の心を受けとめて、それを深く感じとり、同じような立場の人達や同じように苦しむ人たちの力になってあげたいと転換することが共感の価値であろうとも思うのです。

無償の愛というものも、親が子に換わってあげたいと願うように共感や受容というものは自分の心に深く相手と共通するものを持つということでしょう。言い換えれば相手が自分だと思える一体感のことです。

今の時代は、この心の共感力が低下してきているようにも思います。表面上ばかりを合わせ、無理に縦の関わりを強要される社會の中で心を閉ざして生きている人が増えているように思います。心を閉ざせば閉ざすほどに、耳は塞がり、心も通じず、受け止めることもできなくなります。

引き籠りというのは、本来、そういう状態を言うのであり、心を閉ざしている人は実際はいじめられる方ではなくいじめている方なのです。心を開いているからいじめを実感するのであって、心を閉じているからいじめるのです。

豊かさや貧しさというものがあるとき、心の豊かさというものは所有物という考え方のところにはありません。自分という物として考えるのではなく、自分という存在を尊重するときにだけ真の豊かさは得られるからです。貧しさの本質は、自分の存在を受け容れようとしない、自分らしさや個性を大切に尊敬しようとしないということでしょう。

優しい心というものは、人間が生きていく上で何よりも大切にしてきた生き残る智慧であろうと思います。思いやりや真心の基本も、この優しい心を如何に守り育てるかにかかっている気がしています。

子どもたちは優しい心を持っています。それを大人都合で大人にさせていく過程で、失わせていくというような環境は誰が造りだしているのでしょうか?身近な大人たちの生き方が、子どもたちに希望を失わせてはならないと感じます。

優しさとは、心の本体です。

自然が私達の存在を認めてくださるように、人間が存在を認めれば生命は輝きはじめます。
子ども達の魂を守るのは、先人を生きる私たちの使命と責任です。

真摯に社業に邁進していきたいと思います。

  1. コメント

    ほんとうに「優しい人」には「強さ」を感じます。それは、一緒に戦ってくれる強さではなく、私のために一緒に涙を流してくれる強さです。代わりに守ってくれる強さではなく、どんなときも、その人を一人にしない強さです。闘う強さではなく、恐れを受け入れられる強さを持ちたいと思います。

  2. コメント

    ひとりぼっちになったと実感したことはありませんが、一人になりたいと思ったことは何度もあります。一人で考えたいから少し離れたいと思う時もあれば、煩わしいからと思う時もあります。そう思えること自体が本来贅沢な悩みだったのかもしれません。感覚的に分かるところはほんの少しなのかもしれません。分かったと思えても分かっていない、優しさもまだまだ分かりません。ただ、子どもが安心できる存在に近づけるよう精進していきたいと思います。【○】

  3. コメント

    優しさにも表現の仕方が沢山あるように思いますが、根本はひとつ、相手の事を心底思った真心からの行動だと感じます。見守ることは、相手を良く見て良く聴き、よく信じる事が大前提で、それがないと、させたり、信じられず、真心から離れてしまう事を痛感しています。自分のことを考えている時間が今は習慣として邪魔をしているように感じますが、その都度事件が起きて気づかせて頂いています。日々のサインを見落とさないようにしたいと思います。

  4. コメント

    子どもの頃は単純な優しさのみでした。それは時に脆く見えてしまうこともあったため、多感な時期はそれが嫌で敢えて真逆の振る舞いをしていたこともありました。成長して責任ある立場を担うようになると、真剣に相手のことを思うが故に厳しく接するという芯のある優しさも持つようになりました。子の親になった今は生き方や姿勢で優しさを見せていきたいと思うようになりました。自分の生きた軌跡が誰かを認める優しさになれるよう、いのちを遣っていきたいと思います。

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