負い目

人は負い目という物を何かしら持っているものです。

この負い目というものは、罪悪感のことでかつて自分を責めて罰したことが許せない過去として残っているのです。

人は誰かが正しいといえば、その正しさに対して自分が悪いという感情が起きてくるものです。自分の存在が何か誰かや周囲に対して申しわけがないという感情があると、次に自分がそれを引き起こすのだからと自らで自らを責めてしまうのです。

人は自分が許せなければ許せない程に負い目を背負ってしまいます。本来の事象は、ほとんどすべてが必然であったと考えられればいいのですが、その時は何かしら自分の中に閉じこもって八方塞だったでしょうから自分を責めていくしかなかったのです。

その時にいくら責めないでといっても、自分を責めてしまうのでしょう。その許せない自分への怒りで自分を満たしていたら、それがいつかは他人に向かってしまいまた自己嫌悪になるという悪循環を繰り返してしまいます。

トラウマというものも、その存在の本質は自分自身との素直な関係においてどこかが歪んでしまったということなのでしょう。あるがままにありのままに素直に感じることができていれば、明るく潔く受け容れ許し、癒やすことができたのかもしれませんが無理をして頑張ったからこそいつまでもその心の傷が残ってしまうのでしょう。

自分を責めないという選択は、自分を許すということです。

この許すには、許す許さないではなく感謝にしているか、感謝であったかということなのかもしれません。

思い返せば、その御蔭で今があります。今の自分がより善く変化したのは、かつて自分がつらく苦しかった自責の念から生き方を転換して努力したことで今の環境が得られているからです。

未熟から成熟して発達していくのが生命ですから、上手くいかないこともあるでしょうし、思い通りに周りの期待に応えられないこともあるでしょう。しかしそんな自分でも見守り助けて下さっている人たちがいることに何よりも感謝できます。

感情は素直に受け入れてそれを味わい、起きた現実もまた素直に受け取りそれを改善し、明るく元気よく勇気と愛と平和で自分らしく自分を生きていくのがお気楽極楽で健やかな人生なのかもしれません。

周りを許せる存在になれるよう、まずは自身の中の心を正していきたいと思います。

  1. コメント

    期待に応えられずに申し訳なく思うことがよくあります。しかし、それが負担になるときは、姿勢が違っているのでしょう。特に、期待されていることに対する認識が違っていると努力を間違ってしまいます。独りで負い目を感じている状態は、一体になっていないということでもあり、その孤立感こそ注意したいと思います。

  2. コメント

    人目に触れている時より、家に一人でいるとき負い目を感じることがあります。誰も見ていないと思っても自分は欺けず、数日続くと信じられなくなります。そんな時は当たり前のことをただ当たり前にやるだけですが、行動を起こせなくなっているときにとっては、その一つの行動が意味するものが大きいことを感じます。日々些細なことでも心に思い当たるときは、当たり前のことに遡り行動をしていきたいと思います。【〇】

  3. コメント

    自分を許し受け入れていく事と、自分を責めて自ら発破をかけていく事のバランスが大切だと思います。いつまでも未熟だと思えるからこそ次への力が湧いてきますが、厳し過ぎれば自らが枯れかねないと思うと、感情との向き合いもまた鍛練であり自分の責任で試行錯誤が必要に思います。打ち克つのは自分、周囲への感謝を感じながら、満足することなく高みを求めていきたいと思います。

  4. コメント

    根が感謝の心かどうかで、有難い挑戦の機会を頂いたと感じられるか、苦しみと感じるかに違いがありますが、先ずは今この瞬間をそう感じられることからが、調律のリズム作りだと感じます。
    いまを大切に有難く味わいながら歩みたいと思います。

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