父母の恩徳はいのちなり

自然界に入り、ふと感じたことがありました。すべての生き物たちには父母があります。父母なしで生きているものはありません。父母は空気のように当たり前に存在しているものですから今更考えないのかもしれませんが、そこにはとても重要なことが隠れています。

私たちの今を思うとき、そこまで連綿とつなげてくださった父母から辿っていくとずっと先の祖までたどり着きます。しかしその祖とは何かといえば、その祖はあまりにも遠大であり観えません。なぜならその祖にもまた父母があるからです。

同じように私たち自然界の生き物の父母をずっと辿っていくと、地球や宇宙の先に祖があります。しかしその祖にもまた父母があるのです。

どこまでたどれば父母の元に逢えるのか、その元が分からないから父母の存在は偉大なのです。中江藤樹が父母の恩徳は天よりも高く海よりも深しといいましたが、私なら「父母の恩徳はいのちなり」です。

父母の元とは何か、それは此処に活かされている自分。この自分の中に存在するいのちです。そのいのちの中で、私たちは父母に出会うのです。

もっとも遠大なものは、もっとも卑近にこそあるものです。私たちが気づきもしないところにこそ、真の存在は永遠に生き続けているからです。

いのちの大切さなど教えられるものではありません、いのちは父母そのものですから常に自分の中に存在するということに気づくだけということでしょう。

人間は何かあるとき、父母を辿っていくといいように思います。そこにあるいのちの息吹に触れて目覚めていくように思います。人類史はいよいよ過渡期に入りますから、しっかりと父母の恩徳を意識しながら歩みを強めていきたいと思います。

 

  1. コメント

    今日は生姜を植えましたが、この種生姜にも親生姜があり、永い歴史が続いていると思うと、畑仕事の意味も少し違って感じます。私たちは、どうも時間の流れも「分けて見ようとする」傾向があり、昔と今を分けたり、過去と未来を区分したりしがちです。また、自分の人生を個別扱いし、勝手に自己評価したりしていますが、そこには、連綿と続く日本人としての精神が受け継がれ、愛の歴史が刻まれていると考えると、「自分の価値」をそんなに安く見積もってはいけないと感じます。永い永い時間の流れのなかで、自分はどのような念いのなかに生かされているかをしっかりと確認して、もっと堂々と生きたいものです。

  2. コメント

    こどもの日の今日、都内にいて鯉のぼりを見たのは川沿いに群れで泳ぐ鯉のぼりだけでした。見て気付いたのがそれだけだったかもしれませんが、子を思う親はどんな気持ちなのだろうと考えてしまいます。そう思うと来週は母の日、来月は父の日とわざわざ振り返るためにその日が用意されたのかもしれません。本来なら日頃の感謝をいつも伝えられていたらいいのでしょうが、毎日には言えないからこそこの機会を活かしたいと思います。【○】

  3. コメント

    何処まで辿っても父母がいるように、私たちは大人になろうが親になろうが何処までいっても子どもという存在でしかないのかもしれないと感じます。山菜取りや蓬餅づくり、山々や雨上がりの田んぼを眺めるのもまるで童心に返るように楽しめるのは、何か大きな存在から大切なものを教えていただいているからなのだと思います。謙虚に生きていきたいと思います。

  4. コメント

    GW中に触れた雪も元はどこから来たのかと聞かれ、海の水が蒸発して雲になって、雲から雨が降って寒くて雪に変わったという話をしながら、この循環をさかのぼると、今この目の前にある雪は何億年も前から続いている循環の中にある物質であることに気づかされます。今と過去のつながりを見えなくしているのは自分の意識ですが、物事の見方を自分自身がつながりを持ってみるように意識を変えていくことを大事にしていきたいと思います。

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