一人ではない

生きていれば色々なことを感じて迷ったり覚めたりすることは当然だと思う。

その時その時の自分の心が如何に正しく澄んでいるか、そういうことを思うよりも先に自分の感情が波立ってくると迷いがおきてくるのも学びの歓びであると思う。

もともと自分が決めてあったものも、そういう時に揺らいでしまうのは穏やかで静かな澄んだ心が出にくくなっているからでもある。

人は思い思いに日常の中で様々な自分の欲求を満たしながらも、自らの道を歩んでいるのである。そうやって研磨しながら身を修めていくことで、格と徳が顕われてより一層澄み渡っていくのだろうとも思う。

自らの道がどんな悪路であろうが自分が決めたのだから最期まで遣り切ることではじめてその答えが次第に観えてくるのであろうとも思う。

長い時間をかけて行うことはすべてに地味な行為でもある。

その地味な行為の中に妙味を感じることは澄んだ心でしかわからない平穏な境地を楽しむことになるのだろうとも思う。

人は人によって心揺らぎ、また人は人によって心澄むことができるもの。
如何に人を愛し、慈しみ、思いやることが価値のある事か。

生きることは素晴らしいということに尽きているのだ。

安心してその命を全うするということは、その根底に何よりも信があることが大前提になっていてそれを支える人がいるから人は感謝とともに命の源を感じて今を楽しむことができるのであろうとも思う。

人は一人では生きられないのではなく、生きることは一人ではないということなのだろうとも思う。

世界を信じて人間を信じてすべての天地自然を信じて真我のままに寄り添い生きることが至誠そのものの天と通じて一体になることであろうとも思います。

なかなか人にはできないことを今までもやってきたのだから、ぜひこのまま迷わずに最期の瞬間まで大切に丁寧に真心のままで遣り切ってほしいと思います。

私も実践を共にしつつ心からあなたを支援していきます。

誠の日々を楽しみながら次なる旅路を脚下の道を味わい尽くしていけるといいですね。

互いに道半ば、元気いっぱいにまた今日も迎えましょう。

  1. コメント

    野見山社長、昨日はお電話を頂き、ありがとうございました。福岡から帰京されてすぐの、慌しい中にもお気遣いくださり、大変恐縮しております。
    私の方は、歳のせいか、不覚にも体調を崩してしまい、お恥ずかしい限りです。
    振り返れば、カグヤ創立当時、一緒に働かせて頂けるようになった矢先、父が認知症を発症したのでしたね。
    それ以来、野見山社長には、ご心配やご迷惑をおかけしております。また、介護に専念できるよう、ご配慮くださったことも大変感謝しております。
    このブログを読んでくださる方のため、少し補足説明させてくださいね。
    私の父は現在90歳。第二次大戦に従軍し、満州に派兵。終戦後はロシアの捕虜となって、11年間も石炭堀りの強制労働をさせられました。そのため体はボロボロになり、塵肺と重度の喘息を持っています。
    私は小学生の頃から『お父さんは長生きできないから、お前が早くしっかりしてくれよ』と言われながら育ちました。
    また父は、病弱な体に鞭打って勤めに出、百姓仕事もして、食べさせてくれたのです。お陰で私は大した苦労もせず、大学まで卒業できました。
    だから、万一父が倒れたら、見送る日まで私が傍で見守ろうと、学生時代から決めていたのです。介護を始めて9年になりますが、お陰さまで今日まで生き長らえることができております。
    野見山社長には、昨日の電話で、また本日のブログで、力強い支援の言葉を頂きました。真心からの励ましの言葉は、何にも勝る良薬、栄養剤ですね。
    慈愛の眼差しで見守ってくださっていると思えば、勇気は2倍に、苦労は半減するようです。
    人生と言う『学びの旅』の中で、励まし合える歓びを噛みしめながら、これからも精進して行きたいと思います。
    野見山社長、ありがとうございました。

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