命の弱体化

今の時代は、元々自然にあった命の色々なものが弱体化してきている。

科学技術の進歩にあわせて何かを加工することが良いことなのだと思い込まされ、元々あった精神的な部分から肉体的な部分、その他、命のあらゆるものが弱体化してきているといっていい。

それは人間が何かを付け足せば強くなるという勘違いから、人間の眼に見えるものに囚われその迷信を信じるようになってしまったからである。

何かをすれば必ず強くなるという発想は、すべて人間だけで考えるからそうなるのである。そこに自然を無視した考え方があるから、さらにやればやるほど自然から離れ元々あったものがさらに弱体化していくのである。

これは例えれば、子どもで言えばそのままでは善くないと様々なものを教え込み自然の状態を無視して教育という名のもとに何かしらの強いものにしようとする。しかしそんなことをすれば元々の生きる力が弱体化し環境に順応する力を失わせ本来自然に具わっているものまで失わせてしまうこともある。

似ているところで他のことに例えれば、自然の中で育てるという農法も元を正せば肥料を入れ土を耕し、何かをしなければ作物は育たないと思って色々なことを農家がやるけれど実際はそのことにより作物が弱体化し、そのために農薬から様々なものをさらに付け足していかなければならなくなっているのと同じである。

人間が足せば足すほど、そのものの自然は弱ってくる。

山に人間が入れば山が弱るのと同じように、何かをしようとすればするほど弱くなるのである。そもそもこの人間が何かを付け足すという行為は、自然を無視しているからである。

もともと眼には見えないけど私たちの命というものはすべて自然の中で活かされているというものであり、その中の命の一部としての自分だと思えば自分だけで完全であるなどとは勘違いすることはない。

そうやって自然の中に在る自分が完全であると思えば、人為的に何もしない方が本来の自然の力を活かしていると思えないだろうか。

病気でもそうだけれど、そのままにしていたら治るのに余計な治療をする。そもそもそのままが分からないほどにおかしくなっているからやればやるほど裏目にでる。そもそも根本がどうだったのかを知らないからそういうことになるのである、それは自然を正しく学んでいないからである。

私たちが自然とともに学び生きるというのは、自然を無視しないということである。

かんながらの道とはもともと何もしなくても、私たちは自然に生きているということを覚ることでもある。そういうものが命の道と呼ぶものではないだろうかと最近は身近な出来事を通して思うことが多い。

そして私たちのミッションであるあの子ども達がなぜ今、こんなに大変なことになっているのだろうか。それはすべてにおいて大人たちの勘違いによる肥毒の被害を受けているからである。

今こそ、世界がこういう危機に瀕しているからこそ、最も地球で影響を与えている人間がもう一度、自然を無視しない生き方、自然から考える生き方というものを学び直す必要があるのではないかと真摯に思います。

今まで学んだ刷り込みをどう取り除くために学ぶのか、自然の中にある奇跡を歓び当たり前のことに気づけるような実践を積んで様々な叡智を消化していきたいと思います。

当たり前の日常から自然の真心と一体になる実践を積んでいこうと思います。

  1. コメント

    子どもたちに置き換えて考えても今の時代は、もともと人間にある生きる力を無視して、人よりも何かが多く出来すぐれている方が正しいという勘違いが往々にしてあるのだと思います。何かを付け足すのではなく元々ある力を引き出すことに目を向けるだけでも人の生き方は変わるのだと思います。子どもたちを見てもそうですが生きる力は突然身に着けたり足したりして生まれる力では無いと思います。様々な環境を通して発揮される生きる力を見守っていくのが、先に生まれた私たち大人の役割ではないかと思います。

  2. コメント

    野見山氏の指摘された『命の弱体化』は、先進国のどこでも報告されているようです。そしてそれは、子供たちの周りからあらゆるリスクを排除した、過保護の結果だとも…。
    しかし、この弱体化が問題視されてから、もう随分経つのに、政府はその解決に本腰ではないようです。
    それは、政府や公的機関が、どんな小さなリスクも回避していたいからでしょう。万一、病気や怪我の原因になったら、トップの責任が問われますから。だからこの状況は、この先も変わらないかもしれません。
    では、この問題の解決策を模索している国はないのでしょうか?ひとつの例として、20年前に聞いた、ドイツPTA主催の『体験学習』を紹介します。
    それは子供たちに、近所の農家、酪農家、肉屋、パン屋、靴屋、家具屋、仕立て屋など、あらゆる職業で、その仕事を体験させる取り組みです。
    実際の土に触り、動物に触り、フンに触ります。また刃物を使って、自分の物を作ります。これが元々の人間の暮らしですから、多少の不衛生やリスクも含めて、本来の暮らしを体験していくのです。
    ドイツでは、市民レベルの組織、PTA(Förderverein)がとても強い発言力を持っています。暴力的な漫画、番組、ゲームなどを排除することでも知られています。残念ながら日本ではお金が全てなので、売れるものが排除されることはないようですが…。
    ただ、このような実践が、日本で広まっていかないのは、保護者がそれより受験のための学習を重視するからだとも聞きました。もしそうなら大変残念なことです。
    野見山氏の提唱される『かんながらの道』を歩む(自然を正しく学び、あるがままに生きる)人が増え、子供たちの生命エネルギーが再び眩しく輝きますように!

  3. コメント

    「いまだ木鶏たりえず」と言えるためには、学歴や知識一辺倒に偏る教育から脱却の必要性を感じます。学歴優先の飾り立てた知識で分かった気になるのではなく、経験から感じ考えること、素直に聴ける徳を積む大切さを感じます。
    また最近観たDVDで人工的に一斉に卵を孵化させ、鶏を育てていくシーンを見ましたが人間のために育てられ命を育てているとは到底思えませんでした。命が物のように扱われ、流れ作業で行われている光景は、命を扱うという意識の低さを感じさせます。ゲームでも生き返ると思い込むことも、自然から離れた生活を送っている成り行きなのかもしれません。
    自然と生きるとは何かこれから、実践を通して学んでいきたいと思います。

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