本物の継承~原点回帰~

人間はその人を判断するとき、その人の職業や性別、年齢、見た目、経歴など様々な情報をもとに分類していきます。例えば、医者、職人、芸人、営業マン、お坊さん、経営者など、その人の立場を見ては分類分けしていきます。分類分けしてわかるのは表面上のやっている業務全般を知ることはできますが、その理念は何かとまでは確認しているわけではありません。

言い換えれば、人間か猿かライオン、オスかメスかという分類はしていてもそのものが本当は何を目指しているのかや本当は何がしたいのかということまでは知らないままに役割を勝手に決めつけてしまうものです。

そもそも自分の役割というものは、理念があってはっきりしてきます。その集団が目指しているものは何か、その社會が目指すものは何か、全体の集団の中で自分の役割を知るのはその全体の集団が何を目指しているのかによるのです。

例えば、全体の集団が人類の幸せを目指し見守ることを優先しようと理念を持つなら、それは見守る社會を創造する社會ですから、そこでの人たちは見守る医者、見守るお坊さん、見守るコンサルタントのように、その人の肩書きの前に何をする人か、つまり理念がはっきりしているように思うのです。

その共通する理念の中で、自分の役割を考えることで役割を押し付けるのではなく自分の得意分野で役割を活かしあうことができるように思います。それはまるで森の中の木々たちのように、百花繚乱の花々のように、また発酵場にあるような土壌の中の菌類や生き物たちのように、皆で互いのいのちを見守り合います。

どんな社會にしていきたいか、どんな世界にしていきたいか、そういうものがまず先にあって職業はそのあとであるのが本質なのです。しかし今の時代は、原点には触れず職業だけで自分の立場や役割を決めつけてはその範囲を勤めることが仕事だと刷り込まれています。

自分が何のために産まれてきたのか、自分の本当の役割とは何かとは、使命感のようなものです。突き詰めて深めていけば、志や思いやりに人は生きるように思います。この時代の中での自分の役割は何か、この自分の人生での全体の役割は何か、いつも周りの世界に心や眼を開いて何のために在るのかを自覚することが役割に目覚めることかもしれません。

理念とは、本質そのものであり本来の原点です。

不易と流行、温故知新、刷り込まれず素直に正直に理念を観て、本物を継承していきたいと思います。

  1. コメント

    自分が望む社会とは何か。自分が子ども達に残したい環境は何か。それを実現していく為の決断をするのは自分自身です。実現はいつも誰かの見守りやお陰様でしたが、自分の人生を振り返ると決断だけは自分です。自分の夢、志に生きるのか、それを強く思い、決断していけば、無理なことも無理ではなくなる事を、引越しや入園、またお客様との出会い、歩みから感じています。いつも自分が志や夢から決断しているかという問いかけを大切にしていきたいと思います。

  2. コメント

    「使命」とは、全体のなかの役割であり、「誰が」ということは後でいいことです。しかし、この使命を見失って「自分の都合」が前に出てくると、いかにうまく生きるか、より有利に生きるにはどうすればいいかということが問題になってしまいます。そうならないためにも、「自分は何者であるか」ということを知る必要があります。それは、結局、使命と役割を知ることです。何に興味・関心があるか、どんな才能を与えられているか、どのようなご縁を生きているか、それらすべては、この「自分は何者であるか」を知る手がかりなのでしょう。

  3. コメント

    中学、高校、大学と進路に向き合うたびに、どんな職業に就きたいのか、そのためにどんな学校へ行き、資格は何が必要かと本を手に取った記憶があります。
    将来のために逆算をして、そのために勉強が必要、試験は通らないといけない、内申点も…、と今思うとそういった学生生活を送り、周囲から煽られていたようにも感じます。今実際はどうかと思うと、どこの枠に当てはまるのか、資格は保持しているという感覚で、それよりももっと大切なことがあるのだと感じています。そう思った時、信念に対してどうだったか常にそこにつきることを感じます。【●】

  4. コメント

    学生の頃からいわゆる自己紹介というものに違和感を感じていました。趣味・特技云々はもちろん大切かとは思いますが、それで本当の自分は分かるのか、繋がり合えるのかと思えば、伝えるべきはそこではないなと感じていたからです。上辺に流されることなく、自分が何者なのかを自分自身で見失わないよう気を付けたいと思います。

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