「とはいえ」のない世界~子どものままに~

先日、ニュースを見ていたらアマゾンではダムが乱立をはじめ、各地の少数民族たちが移住を迫られているということを知りました。世界の奥地には、私たちのような文明が影響を受けていない場所がたくさんあります。人類は多様化し、それぞれの生き方を自らで選びそれぞれに環境と一体になって生き残ってきましたがグローバリゼーションは地球の隅々まで広がっていきます。

経済だけを優先し、今さえよければいいと突き進んでいく姿に未来への深い危惧を感じてなりません。世界は今、覇権もアメリカから中国へと移動をはじめていてまた均衡が崩れて乱れる予感もします。しかし同時に、私たちはどこかで立ち止まりまた深く内省しなければこのままでは取り返しのつかないことになるのではないかとも感じます。

今から23年前に、世界で最初の「地球サミット」がブラジルのリオで開催されました。その時、カナダ出身のセヴァン=カリス・スズキさん(当時12歳)がお小遣いをためてブラジルにやってきてそのサミットで世界に向かって発信したことは今でも「伝説のスピーチ」として語り継がれています。

その中の一文に大人たちに向かって子どもが訴えるとても心に響く文章があります。

「If you don’t know how to fix it, please stop breaking it.」(もうこれ以上、直し方のわからないものを壊し続けるのをどうかやめてください。)

これは大人の人たちへもうこれ以上、自然破壊をやめてくださいという訴えです。原発であれシェールガスであれ石油であれダムであれ、目先の損得に負けて国益があり便利だからと今の大人たち皆がそれをやってしまい長い目で観たら大変なことだと分かっていても直さないならそのツケは全部子ども達へ先送りです。どうかそれに気づき、そういう生き方を改心してくださいと世界へ訴えたのです。

それからもう23年経ちましたが一向にそのようにはならず、謙虚に奥地で何代先のことまで考えて何千年も何万年も生き抜いてきた少数民族たちとその自然文化も破壊していくでは、人類の未来が心配になるばかりです。

またこの少女は続いてスピーチで語り掛けます。

「小学校で、いや、幼稚園でさえ、あなたがた大人は私たちに、世の中でどうふるまうかを教えてくれます。たとえば、争いをしないこと、話しあいで解決すること、他人を尊重すること、ちらかしたら自分でかたずけること、ほかの生き物をむやみに傷つけないこと、分かちあうこと、そして欲ばらないこと。ならばなぜ、あなたがた大人は、私たち子どもに「するな」ということを、自分達はしているのですか?」

これらの中には大人たちがよく用いる「とはいえ」ばかりがあることに気づきます。子ども第一義の中心にある「大人のとはいえを取り除く」というのは、言行不一致の生き方を改善しようとする生き方の事です。子どもを思うなら、自分の実践の先に自分の子どもたちの実践が続いていくことを自覚するべきです。

そして子どものことを真摯に思いやり、人類の未来に確かなものを譲っていくのなら今の自分たちの生き方を見つめなければなりません。それは善か悪ではなく、自分が決心した生き方をそれぞれが実践していくということではないかと私は思います。子ども人権宣言のヤヌシュ・コルチャックもいいます、私たちは「大きくなった子どもなのだ」と、だからこそ大人か子どもかではなく子どものままに子どもを見つめる必要があるのです。

そしてその少女はスピーチの最期にはこう締めくくりました。

「わたしたち子どもの未来のことなんて、みなさんの議題の中にすら入っていないじゃないですか。みなさんは、私たち子どもの未来のことを本当に考えてくれているのですか?私のお父さんは、いつも、「人間の価値は、何を言ったかではなく、何をしたかで決まる」と言っています。でも、私は、あなたがた大人がこの地球に対していることを見て、泣いています。それでも、あなたがた大人はいつも私たち子どもを愛していると言います。本当なのでしょうか?もしそのことばが本当なら、どうか、本当だということを言葉でなく、行動で示してください。」と。

私たち人類は何万年もこの地球で、生きることを許されてきた存在です。人口も80億を超えたといいます、この先、私たちはどのように暮らしていくのか。子ども達はこの先、何を指標に自分たちを生きていくのか。問題ばかりをみては問題を先送りするのを当然にするのではなく、今はもうすでに答えを生きる時代に入っていると思います。

如何に自分の答えを持つか、そして自分の答えに正直に生きるか、時代は人類に最大の試練を与える時期に入ってきたかもしれません。この時代に産まれてきたことを誇りにして志のままに希望を歩んでいきたいと思います。

私たち日本の文化が、必ず世界に役に立つ日が来るはずです。その日まで、真摯に直向きに生き方の原点回帰と改善を続けていきたいと思います。

 

  1. コメント

    12歳であのスピーチをする、驚きです。ですがそれ以上に驚くことは自分の意見を表明する勇気です。自分は12歳の時何をしていただろうと思い浮かべるのと同時に、今の自分にその勇気はあるかと考えてしまいます。2児の母親になったようですが、今も活動は続けているようです。
    この連休で紙漉き体験の機会を得ました。この体験も必ず役に立つ、そう信じ今出来ることをしっかり積んでいきたいと思います。【●】

  2. コメント

    「直し方のわからないものを壊し続けるのをやめてほしい」という言葉には、ドキッとします。それは、「存在」に対する「責任」というものを問われているのでしょう。またそれは、「壊す」ということに対する姿勢というか愛情の問題かもしれません。先日、あるお寺の住職さんが、魂を抜いて手の一部を外してある仏像をみて、「丁寧に壊してある」という表現をされていました。また、日本には、長く使ったものに対して「供養」をする習慣もありますが、もともと日本人は、すべての「存在」に配慮するという基本的な考え方を持っていました。もう一度、その辺りの価値観を思い出す必要があるかもしれません。

  3. コメント

    セヴァンさんの言葉は、まるで自分の中にある良心(子ども心)が、もう一人の自分に対して問いかけている言葉のように感じました。国益を優先したり未来にツケを回す今の社會の問題は、自分中心に物事を考えてしまったり先送り癖が抜けなかったりする今の自身の問題と一致しているように思え、その恐ろしさにゾッとしました。彼女のスピーチの中に「もし、戦争のために使われるお金を、貧しさと環境問題のために使えば、この地球は素晴らしい星になるでしょう」とありましたが、自分が頂いているもの、この「いのち」も「時間」も「相手を思いやれる心」も、一体何のために頂いているのかを深く考えることもせず本質を見失えば、ただ自分の為ばかりに使おうとしてしまうのだと思います。自分の生き方は、そのまま世の中そして未来に繋がっている。たとえ小さくても自分の変化が世の中を変えていく。循環の中にいる自分であることを忘れないような、生き方の転換が必要であることを感じています。

  4. コメント

    今日はこどもの日。自分のまなざしを改めて見つめなおし、学びなおす日となりました。自分自身のまなざしを見つめる中で、分ける自分と出会い、そして分けずに同じく考える自分とはと思った時に、ただただ、自分の生き方で接するという事を大切にしたいと気づきました。そして、子ども達が寝付くまでの間、自分の心を変えよう、ありたいままでいようと思うと自分の刷り込みから一つ、抜け出せる体験をしました。自他一体の意味の一つをまた味わう機会となりましたが、出会った真心を出し惜しみせずにいられる自分でありたいと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です