死生観~心の赴くままに~

人は本当は誰もが心の赴くままに生きていきたいと願うものです。しかし実際は、数々の刷り込みの中で自分の心を見失い自分の心が一体何かが分からずに迷い惑い悩み、そしてまた心から離れてしまい苦みます。その心が何か、その正体を理解するには深く自分の心を静かに見つめてみないと分かりません。

しかし実際の人生では日々の喧騒に追われ、静かに自分と向き合う時間をなかなか持てないものです。それが病を得たり、死を迎えたりするとき、はじめて自分の心と向き合うことができるようにも思います。

死生観というものがあります。

これはどう生きるのか、どう死ぬのかという心の在り方を見つめる観点です。これは自分の人生をどう死のうかと考え抜けば貫くほどにどう生きようかになってくる、つまりはどのように生きてどのように死ぬかという問いの中に自分の心を見つめられるのです。

この死生観というものは、時間を何に遣うか、その志を何にするかという自分の心との自問自答です。これを持つ人は、その後の人生の遣い方、時間の遣い方が変わってくるように思うのです。時間とは自分の与えられた人生ですから、それをどれだけ真剣に真摯に生きるかはその死生観が基本になっているかが左右するように思います。

吉田松陰が弟子に与えた有名な詩があります。

「志を立てるためには人と異なることを恐れてはならない
世俗の意見に惑わされてもいけない
死んだ後の業苦を思い煩うな
目先の安楽は一時しのぎと知れ
百年の時は一瞬にすぎない
君たちはどうかいたずらに時を過ごすことなかれ」

私はこの詩を讀むとき、どうしても心に繋る言葉があります。それが「君たちはどうかいたずらに時を過ごさないように」という言葉です。

これはきっと吉田松陰が自分自身に常に言い聞かせた言葉だったのではないかと感じます。人生は短い、忙しさを理由にして自分の人生を無駄にはしないでほしいという願いでもあったのでしょう。

吉田松陰の遺書には、「人生には誰にも四季が備わっている」と書かれました。ここにも死生観が観てとれますし、また「生死は度外視してやりたいことをやりなさい」とも言いました。

純粋さというものは、如何に自らの心を静かに向き合い、その心を透明にし心の赴くままに透徹に生きることではないかとも思います。素直さや謙虚さというものは、自分の心に近づくための大切な人生修行実践目録の要諦のようです。

忙しさを理由にせず、言い訳を当然にせず、自分の決心した「志」に生きることが人生の仕合せ、出会いやご縁、そして「思い」に死ぬことかもしれません。志を持ちなさいといった吉田松陰の言葉を胸に、真心のままにかんながらの道を精進していきたいと思います。

  1. コメント

    「死生」と「至誠」。松陰先生が「しせい」と言った時「至誠」と思っていましたが、「死生」の意味も持ってきっと発していたのだと感じます。自分自身を見つめる問いは、問い続ける間しか見ておらず、よそ見ばかりしているのかもしれません。今出来ることを尽くしていきたいと思います。

  2. コメント

    「自分はいかに死ぬべきか」を考えるということは、「いかに生きるべきか」考えることです。「自分は、どのような一生を生き、どのような人間として、どのような死に方をしたいのか」を自問すると、その答えが、「自分の生きる勇気」となります。いつまでも迷っていて、いつまでも不安なのは、この「死生観」が立っていないからでしょう。真の「勇気」を持って、「不惜身命」という生き方をしたいものです。

  3. コメント

    死生観、しかし現実は昔に比べて「死」が身近に無くなってきてしまっている、もしくはバーチャルの世界のものばかりになってしまっており、その逆の「生」の意味も曖昧になってきてしまっているように思います。祖父母、親戚、ご近所の方々、親しい人の死がそれを思い出させてくれますが、その関係が希薄になれば「生」もまた薄れていくのは当然なのかもしれません。子どもたちの身のまわりにリアルな「死」はあるのかどうか?自分もまたリアルな「死」を忘れていないだろうか?「死」があって初めて「生」の意味を知るという一円観。「死」を忌み嫌わないことが自分自身にも必要であることを感じます。

  4. コメント

    後にまわすと言うことは、また次があると想うことだと感じます。一期一会の生き方を志す自分としては、やはり、今日死ぬかも知れない、その思いを持ちながら、家族、仕事、仲間、全ての時間を過ごしたら、どれだけ豊かなのだろうと思います。次は、今の続きにしかなく、今を先送りにすれば、次は来ない。そんな思いを大切に、今を歩みたいと思います。

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