陶鋳力

吉田松陰に影響を与えた人物に山鹿素行がある。

山鹿素行は、朱子学を学びその後それを批判し実学をすべきだと本人の学を「聖学」としたことで幕府から赤穂へ流された。そこで赤穂浪士の大石内蔵助がその門弟だったことも有名である。その他、聖学の一環として神道や歌学なども修めていたとても古代に通じる実践的な方であったと資料には残っている。

山鹿流兵術というものを学んだ吉田松陰が、素行の聖学の本質でもある「常に勝敗は現在なり」の思想から生の実践主義を会得していたのであろうとも推察できる。

いつの時代も本当に学ぼうとする人というのは、架空の妄想の教科書を通して得ようとはしない。

常に今、生きている此処に真実があるとし、そこに徹底的に透徹するように心技体の全てを集中しているからこそ本来の叡智を活かすことができることを知っているである。

当代風の私なりの言い方をすれば、「今此処に自分の生命の全部をいつも出し切れ」である。

自分自身の身を毎日振り返っても常にこの実践現場にこそ答えがあるのだから妄想や妄言にいちいち迷っている暇があるのであればこの今感じたものに全力を尽くして取り組むことが何よりも生きている証を味わっていくことができている。

ありもしないことに妄執しても、実際現場は与えられた環境に文句を言わず何よりもそれを全体が善くなるために自分を尽くし切ることに限るのである。

話を戻せば、この山鹿素行の言葉にとても感銘を受けたものの中に「天縦の神聖」がある。

これは神代から受け継がれた日本的精神の基に全てのものを陶鋳(とうちゅう)していくという言い方を安岡正篤氏が遺している。私はこの日本的な陶鋳力というものが最も必要であると感じている。

私なりの解釈だけれど、日本人は全てのものを受け容れる感性を天から与えられている、自然の若さとも言うべき、日本の国土の新鮮さ初々しさからもそれを実感することができる。

全てにおいて若い、そして幼児のような子ども心を秘めている。
島国である前に、まだ新しいのである。

その感性が天から降り、その天からのものを受け容れる力が何よりも長けているのである。世界中の素晴らしい叡智を日本のものとしていく感性こそが、私たちの体内に宿っているのである。

このかんながらの道もまた聖学であろうとも思います。

道の中で陶鋳力を磨き、さらに世界中の新たなものを吸収していこうと思います。

  1. コメント

    全てのものを受け容れる感性を天から与えられているのなら、自分の持っていない感性を持っている人に関わり、自分自身を深めていきたいと感じています。カグヤの仕事の一方で、農など様々なことにも携わる自分もおり、日々想像がつかないことが起きていますが、それを受け入れる感性も備わっていることも感じます。日々の中で感じている事ですが受け入れることと、流されることがあることを意識して、相手の話を聞き、理解することを大切にしていきたいと思います。

  2. コメント

    私たちの社内でもそうですが、外国で使われたものがあります。もちろんある意味で、それをそのまま日本に持ち込み使おうと思えば使えるのかもしれません。しかし、より良いものにという考え方や、この国の理念から考えるとそのまま使うより、変換した方が良い時もあるのだと最近は感じます。しかし始まりは受け入れる姿勢があるからこそだと思います。今の時代はどうしても自分自身すら閉ざしてしまいがちの部分があると思います。先ずは受け入れるという姿勢、大事にしたいと思います。

  3. コメント

    朝の論語に、「内に省みて疚しからずんば、夫れ何をか憂え何をか懼れん」とありました。自らの行いを反省してやましいことが無ければ一体何を恐れたり心配することが在るだろうかと書かれていました。自らの心にやましさが無いという事は、今を精一杯にやり切った状態であることを学びました。心と対話することを恐れれば、人や架空の知識などに矢印が向くのだと学びました。いつも自分の心と対話し、やましさのないようやり切ることを大事にしたいと思います。

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