自然共生の本質

自然界には共生関係というものがあります。それは相互扶助の関係で御互いに助け合うことで御互いを守る関係です。これを共生とも言いますが、本来の姿をよく見つめてみると自然は競争ではなく全て共生で成り立っているとも言えます。

例えば、アカマツとマツタケの関係があります。アカマツとマツタケの共生関係は「菌」が関係するということが解明されてます。 外生菌根から土壌中に広がる菌糸を根外菌糸体と呼び、松茸は根外菌糸体が土壌中から吸収した養分の一部を外生菌根を介して松の根に与え、逆に松が光合成で得られた糖分を分けてもらいます。痩せた土地であればあるほどに力を補い合い、御互いが存在しなければ生きることもできないというのが共生の関係です。

そして共生は、単に御互いにメリットがあるからやっているのではなく、一心同体に一生懸命自らのいのちを与え続けて生き切ることにより献身的に助け続けて成り立ちます。このマツタケでいえば、アカマツが育つまでは菌は栄養を貰うことができないのです。それまではじっと信じて耐えて何年もアカマツが育つのを待つのです。

そしてこの共生と子育てはとても似ているように思います。

全ての自然界の生き物たちは子育てを通して共生関係、相互扶助を結びます。鳥であっても、育つまでは大人の雄雌で給餌をして必死で子どもを守り育てます。他にもサバンナの生き物たちも危険を省みず同じように自分のいのちを懸けて子どもを育てます。そうして何年もかかるものもあれば、人間のように十数年~数十年以上かけて子ども時代を見守ります。

その間は、自分の養分を分け与え続けるのです。そうして育ったものから、今度は自分が生きるためのいのちの糧を分けてもらうのです。本来の自然観とは、生死がかかっています。つまりは必死の中で、生きるか死ぬかの中に存在します。そういう中での助け合いとは共生であり、相互扶助の本質です。

人間のように今ではそんなに生き死にが身近になくなってきているから、共生のことが分かりづらくなってきているのかもしれません。頭で妄想している自然は不自然ですから、本来の自然に生きているいのちに私たちは学び直す必要があるように思います。そして自然界が競争ではなく共生である理由は「必死」であるから相互扶助(共生)が存在しているのです。

今の社會は助け合わなくても一人で何とかできるかのような風潮が出てきています。そんな不自然な環境下での助け合いは本来の助け合いの本質とほど遠くなっているようにも感じます。

共生の本質が理解できるのは、必死であることを自覚しているからかもしれません。自然の智慧を学ぶには教科書のように知ればいいのではなく、文字通り自然本来の姿に自分を近づけていくことのように思います。

共生から自分の刷り込みに気付けるように、学び直しを深めていきたいと思います。

  1. コメント

    「助ける」という言葉には、どこか、上から目線的なイメージが感じられます。その反動から「助けてもらう」ということに抵抗があるのではないでしょうか。しかし、それが、『助け合う』という言葉になると、まったく意味が変わります。それは「お互いさま」という豊かな世界です。「助ける-助けられる」関係ではなく、「誰かに支えられ、みんなに見守られ、誰かにお返しをするという命のつながりの世界」です。「一人でできることを善しとする価値観」はその辺りを勘違いしているのではないでしょうか。

  2. コメント

    目には見えなくても信頼関係で結ばれている、それをどれほど自分は意識していただろうかと思います。質問することでどれだけ意識していたかに気付き、改めて見守りの中にいることを実感しました。共に働く中でお互いに誇れるもの大事に育てていきたいと思います。

  3. コメント

    人間という種が存続する為の戦略として社会を形成し、助け合うという手段をとっている中で、競争という概念や、孤立、自分都合で動くというのは、危険な事なのかもしれませんが、その為にも社会を形成しているのだと思います。排除するのか、均一化するのかではなく、社会という存在そのもので見守っていく。社会をより磨き、高める為にも、自分の修練を怠らずに居たいと思います。

  4. コメント

    台風に無理に抗わずに適切に対応されていた先生方、それにもまた大きな意味があったように思えました。観えていないものばかりの一日でしたが、これも一生の中での二度と無い有難い体験だったと感じます。全てをあるがままに受け入れることが出来る自分になっていきたいと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です