学問の大禁忌~道を見失う~

知識をつける世間でいう勉強ではなく、道を実践する学問は学び方にルールがあるように思います。道に入っている人は決してしないことでも、道がよくわからない人は簡単にやってしまうものがあります。そういうものが生き方に出て来ますから、なぜかいつも王道の中で自然体に歩む人と、いつも道から逸れては煩悶として不自然になっている人に分かれるように思います。

ではその差は何かということです。

吉田松陰の遺訓の中に「学問の大禁忌は作輟なり」があります。意訳ですが、「道を実践するという本物の学問において、絶対にやってはならぬことはやったりやらなかったりすることである。」と言います。

道というのは、歩んでなんぼのものです。歩まなければ道ではなく、歩むから道だと言えます。もしも足を前に出していないのなら歩んでいないということは誰でもわかります。それが日々の実践です。しかし実際は、悩んでばかりや周りに文句ばかりったり、言い訳ばかりして一向に自分の脚で歩もうとしない。自分で歩かないのに進まないと愚痴をいっては実践しないでは道は自分から遠ざかっていくように思います。

道とは、自分の人生のことです。自分に与えられた人生ですから、それは自分自身でしか歩むことが出来ません。そしてその道を歩むにおいてどこに向かいどこに辿りつこうとするのかはその道の歩み方といった志に顕れてきます。

どんな人生を歩みたいかを初心に、理念を定め、定めた理念に正直に素直に実践していくことで人は道を謳歌していくことができます。そのために、もっとも道においての禁忌は「したりしなかったりすること」であると私も思います。

したりしなかったりするのは、そこに我欲があります。自我に真我が負けて己に嘘をついてしまうからしなくてもいいことになっていきます。しない日々が続くのは、自分で決めた初心を偽るのですから自分にいつも言い訳を言って帳尻を合わせることになります。すると、自分の中にある真心や情熱、そういうものに水をかけてしまうことになるのです。

常に自分で決めた道は、自分の脚で歩き切るといった自らの実践があって人は学問の楽しみを深く味わうことができるように思います。

最後に、吉田松陰の言葉で締めくくります。

「至大至剛は気の形状模様にして、直を以て養ひて害することなきは、即ち其の志を持して其の気を暴ふ義にして、浩然の気を養ふの道なり。其の志を持すと云ふは、我が聖賢を学ばんとするの志を持ち詰めて片時も緩がせなくすることなり。学問の大禁忌は作輟なり。或は作し或は輟むることありては遂に成就することなし。故に片時も此の志を緩がせなくするを、其の志を持すと云ふ。」

どんな時も理念からブレずに実践することこそ初心を忘れず志を守り続けたということです。これこそが「真の学問」ということです。道に入るということは学問に出会い学問をするということです。道は消えるのではなく見失うだけですから、本来の道に帰りまた道を一緒に歩んでいく仲間に合流していけばいいようにも思います。道はそれぞれ自分の脚で歩みますが、同志や仲間がいれば一緒に歩んでいくことに仕合せを感じ感謝の心と同時に深い味わい楽しみがあります。

子ども達に日々の実践こそ学問ということを自らの生き方で示せるよう精進していきたいと思います。

 

  1. コメント

    昨日の「何のため」に通ずるところがありますが、問い続けているときは意識が離れていないからそのまま実践になります。ただ、わかった気になっている時、やらない日がたまにあっても今日はやるからと都合よく理由をつくっている自分がいます。そんな時はよく迷い目移りしていましたが、今は少しずつ進む方向、進んでいきたい方向をより感じています。実践する仲間の声を聞くと励まされ身が引き締まる思いをします。一人での学びよりも、皆と感じる味わい深さを共有していけるよう、自分に負けずゆっくりでも進んでいきたいと思います。

  2. コメント

    同じく、松陰先生の言葉に、「天道も君学も『誠』の一字にほかならない。実学を、専一に、やったりやめたりすることなくずっと行うことであり、これが『久』である」という言葉を知って、それ以来、『久』が私のテーマになりました。「やると決めて進めていること」の前には、「言い訳」はありません。そういう意味で、『久』とは、単なる継続ではなく、丁寧な積み重ねであり、またそれは、心田の開墾の一鍬であり、道を一歩進めることでもあります。そして、それが何より、日々の「克己の工夫の瞬間」であると感じています。「焦り」があっても「慢心」があってもできません。スピード競争に代わる一つの真理ではないかと思います。

  3. コメント

    一筋の光のような道が見えていてそこを歩み続けるように、心が定まっていれば何の迷いもなくやり続けるのが本来なのだと思います。しかし現実にはしたりしなかったりになる場合がある。何かに目を奪われ脇道にそれるのは、どこかに迷いや執着があるのだと思いますが、それが何なのかは自覚が無いからこそ分からないのもまた現実です。歩みを止めることなく分からないままでも前へと進んでいきたいと思います。

  4. コメント

    日々の学びも「分かるために学ぶ」時と、「変わるために学ぶ」時とあることに気づきます。分かることが目的であると、分からないことは苦しく、辛いことになりますが、変わるためであれば、分からないことは問題ではなく、行動しないことが問題であり苦しいことになるように感じます。何間の学びの時も、分からないことに苦しみを感じている時は、今の自分で受け取れるように脳内をごまかそうとしている時なのかもしれません。むしろ分からないままでも、変わるチャンスと受け取り、行動を起こしていく中で学んでいく事を大切にしていきたいと思います。

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