原始の魂

私たちは自然を観ると、唯美しいと感じる心があります。澄んだ月夜の灯りに包まれたり、沈みゆく太陽の夕陽を眺めたりするとき、心が美しいものを感じます。この美しいということを感じる心というのは原始の魂が宿る様に思います。

原始の魂とは、太古の昔から私たちがその時その瞬間に大切な何かを感じ取っていたということです。言葉にはできなくても、その自然の美しさを覚えるとき、私たちはその美しさを魂で感じ取っているということではないかと思います。

あるがままのものを感じるチカラというのは、人間だれにしろ備わっています。それはこの自然の美しさを感じるときに味わっているからです。本来、自然はそのままで一体でありあるがままで全体であるものです。そこには比較することはありません。そのものをそのままに感じるのは唯一無二の存在であることを実感するからです。

魂はその唯一無二にあるとき、感じるチカラを増すように私は思います。

知識や頭脳ですぐに何かと比べたり、良し悪し正否を分別したりしますが、自然そのものを観るときのようにあるがままの存在を感じて魂が宿るものとつながりながら生きていきたいものです。

原始の魂はいつも自然と同化し同居していました。

時代が変わっても、自然を観て美しいと感じる心を子どもたちに伝承していきたいと思います。

  1. コメント

    日本人は、自然の美しさを、「庭」や「生け花」あるいは床の間の「掛け軸」や「屏風」などに採り入れてきました。また、日々の「食事」の風景の中にも取り入れてきました。したがって、それなりに、どこかで「自然美」を「生活美」として触れながら生きてきています。昔から「真善美」という価値観の中で育った私たちは、「美の中に真と善」と見てきたのではないでしょうか。「美」は「芸術」ではなく「生活」そのものであったのではないかと思います。

  2. コメント

    昨日も沈みゆく夕日を見ながら、青とオレンジのコントラストに惹かれるものがありました。見て美しいと感じることもそうなのですが、心で観ているようで美しいと思うことに嬉しさを感じます。見た目は飾れても心は飾れない、心まで飾りだしたら本当の美しさが見えなくなってしまう気がします。自分の心に正直であることは、その心を大事にすることなのだと改めて感じます。

  3. コメント

    昨日は夕方から六義園という庭園へ出かけました。300年前に古今和歌集の六義のままに表現して作られたという庭園は、自然の形だけならず、日本人の美徳が守られ続けています。触れるばかりでまだまだ学びは浅いですが、日本人の心に触れることができる有り難さを子ども達と共に自然から自然に味わいたいと思います。

  4. コメント

    人の仕草や言葉や姿勢にも、自然から感じるような美しさを観ることがあります。自分自身の中にも火や水や花や光や闇など、冷静や情熱や優しさ…など様々な部分がありますが、あれは善くこちらは悪いとして相反するものまで潰しそうになることが多々あるように思います。美しいものを目にするとき、そればかりに目を奪われてしまいますが、全体があっての美しさであることを忘れないようにしたいと思います。

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