個性の尊重~見守る意義~

人は一緒にいて安心できる人と一緒にいて不安になる人がいます。一緒にいて安心できる人は、いつも自分の素のままをさらけ出していて何をいっても大丈夫という感情のオープンさがあります。しかし一緒にいて不安になる人は自分の素性を包み隠していることが多い様に思います。本当の自分を見せないでいるというのは、周りからすれば不安です。なぜなら何を感じているのか何を思っているのか、いつも気にしなければならない存在になるからです。いつも黙って何もしゃべろうとしないで表情も変えない人の前では人はなかなか安心することができないのです。それはその人が何を思っているのかわからず、相手の気分を害するのではないかと心配になるからです。

相槌を打ってくれる人や、同時に自分もこう思うよと相の手を差し出してくれたり、そうだねと共感してくれる人は感情や気分を受け止めてもらえる安心感があります。しかし無表情で何も言わない人は感情や気分が分からずこちらはいつその人が気分が悪くなって怒り出すのではないかと気になってしまうものです。「感情は心の表情」とも言いますから、感情を出さない人は心が何を思っているのか全く分からないのです。

例えば、相手を安心させる場面でよく映画などでは「武器を持っていないよ、攻撃する気はないよ」と両手を拡げて裸になり笑顔で相手を安心させる場面があります。はじめて会った人や、海外の人、得体のしれない存在に出会ったとき、自分は大丈夫な存在だということを自らが発信します。するとその様子をみて相手は安心して近づいていきます。その後は、関わり合いによって心の距離も近づいていきます。これは動物との関わりでも同じで、最初は警戒していても身の危険を感じなければ次第に打ち解けて安心している状態になれば自分をさらけ出せます。

一人ひとりが自分をさらけ出すことができれば、その場所は安心できる居心地が善い場所になります。居心地が善いというのは、自分の感情や意識と密接にかかわりあっています。最近ではEQといって心の動きを自ら認識することで、社會の中で自分らしく持ち味を発揮することの大切さが改めて見直されています。このEQとは、「Emotional Intelligence Quotient」のことで「こころの知能指数」と訳されます。アメリカのイェール大学のピーター・サロベイ博士とニューハンプシャー大学のジョン・メイヤー博士によって開発されたものです。

具体的には自分の「今の感情の状態」を自己認識しそれを自らでコントロールすることができれば自分にとって適切な行動をとることができるし前向きな感情に転換してその行動をつくりだすことができる。また相手の「今の感情の状態」を認識することで相手に対して配慮できる言動がとることができ、対人コミュニケーションが円滑になるということを訓練する仕組みです。人間は必ず対人関係のスキルが必要になりますから、今はこのEQを学ぶことによって周りとの対話や関係を円滑にしていくよう訓練している人も多いと言います。

結局は、他人は「感情」と「心」とのバランスをどう保つことができて自他を安心・安定させているかが対人スキルということになるということです。感情や心は御互いの距離が近くなればなるほどに隠せなくなっていきますから、感情を押し殺している姿は周りもその姿に不安になるものです。このままでは隠せなくなると思ってはより強く心の壁をつくればつくるほどに、周りの不安が増大します。そのことからさらにその場は居心地が悪くなり、対人関係がギクシャクして周りがギスギスしていくものです。

人々が心の壁を取り払えば、その場はとても居心地がよくなります。場の雰囲気を変えるには、心の壁を取り払う風土を醸成していくことです。それは自分から何を言っても大丈夫という雰囲気でいることや、周りに何をいってもいいですよという雰囲気を発信していくことです。いいかえれば、自分の価値観や思い込みで推測し合うような疑心暗鬼をやめさせ、思いやりで許し合える信頼関係を築きそれぞれの個性を尊重することです。

個性が認められている場は、その人がそういう人でいいと認めています。こうでなければならない、こうあらねばならないという固定観念に縛られることもなく、そのままの自分でいてもいいということが理念として明確になっています。

画一に抑え込まれて感情を押し殺すのではなく、感情をさらけ出してもいいから周りを思いやって御互いに安心した場所をつくろうとするのが個性の尊重でもあります。個性を潰されてきた人は、感情を出すことを恐れます。それはその感情が他人を傷つけ自他を責めて後悔した過去を持つからです。

人間が傷つけあわないでいられるように、如何に思いやりのある社會にし個性を尊重するか。それはこれから世界が互いの多様性を認め、御互いの持ち味を発揮していくためにも見直さなければならない何よりも重要なことだと私は思います。

私が「見守る」ことにこだわるのも、この個性の尊重に強く関係するからです。人間の幸不幸は対人関係が中心です。人間が一緒に生きていくことこそが人間の仕合せを決定づけているともいえます。個性が潰されて不幸になっている人が如何に多いか、、これにいつも義憤を覚えます。

この先、平和が続き地球の子ども達が子どもらしくいられることを邪魔しない世界を創造するためにも、まず大人が今の状況を改革していくことだと思います。

さらに事例を深め、風土改革の仕組みを開発していきたいと思います。

 

 

  1. コメント

    教室は間違うところ、そう先生から教わりましたが、実際に手を上げて発表して間違えれば指摘され、正解が示される。受け入れられている感覚はなく、誰も手を上げない、そんな環境下で育ってきたように思います。服装や髪の乱れは、ほんの些細な抵抗だったのだと感じます。指導する前にもっと相手のことを受け入れているだろうかと、今自分自身に置き換えるとそのことを感じます。自分が求める反応を相手に求めるのではなく、それもいいねと言える自分でありたいと思います。

  2. コメント

    「相手を理解できる」というのは、「受け入れることができる」ということであり、それは「愛すること」に繋がっています。しかし、相手の反応がわからず理解できないと、「関係」をつくることができず、情報不足は「不安」を生み「疑心」を生じさせます。「個性の尊重」も、「理解」から始まります。心を開くことができないのは、それなりの理由があるのでしょうから、そこを理解して、焦らずきちんと向き合えるようでありたいと思います。

  3. コメント

    自分の中に他者との比較や自分の価値観との比較、評価の眼差しがないだろうかと振り返り、あればそれを、ただ丸ごと受け止めること。在りたい自分になれるのかを問うと、自然と手放す勇気を貰えました。今日もまた、素直に生き、手放す豊かさを感じて生きたいと思います。

  4. コメント

    心の中をそのまま相手に見せることが出来たらいいなと思うことがあります。こちらは全くそんなつもりはなくても、相手にとってどう映るかが大事なのだと感じます。本心を捻じ曲げる訳ではないですが、強いボールを求める人には強く、弱いボールを求める人には弱く、相手の基準に合わせるのがちょうどいいのだと、改めて自分のあり方をちょうどよく合わせていきたいと思います。

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